オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

心が引き裂かれそうな夜

手術後5ヶ月が過ぎた頃、私の皮膚の感覚は、毎朝の清拭の感じ方が前日と同じように感じる日もあれば、違う日もあり、また、自分の感覚では曖昧さがあったが、F氏がボールペンでツンツンしながら皮膚の感じる感じないの境界線を日別に引いていた線が、確実に拡がっていた。

また、同じ頃にF氏と理学療法士のM氏が回診に来た時、コルセットを装着しベッドを80度くらいに起こしていたが、いきなり「ベッドの横に座ってみましょう」とのことからM氏と看護師さんが私を支えながら座る格好(座位)にしてくれた。

怪我して初めての座る姿勢であった。

しかし、看護師さんに支えてもらわないと座位の姿勢を保てない。

M氏が前に立ち両肩を支えながら安定する位置を確かめていた。

私も姿勢を保とうとするも力の入れようがわからない。

頭で考え、バランスをとろうとするが、腹筋・背筋、体幹の全てがユルユルのフニャフニャであった。

自分の躰なのに、そうじゃない。

看護師さんに支えてもらい2~3分程度が限界であったが、次の日から暫くの間、従来のリハビリに座位をするメニューが加わった。

そんな中、何時ものようにベッドを80度くらい起こしてもらって、何時ものように両手、両足のグーパーを繰り返しやっていた時、両足の親指が僅かに動いているように思えた。
今までの感覚となんか違う、しかし近眼の視力ではハッキリ見えない。目を細めるが見えない。
くっ~歯がゆい。

病室の片隅で私の近くに居たヘルパーさんを呼んで、小声で「足の親指が動くかどうか見ていて下さい」と頼んで何時ものグーパーをやると、「少し動いてますよ」と小声で言ってくれた。

私はその言葉を聞いた瞬間、身体中がカッーと熱くなり血液が逆流するかのような、嗚咽みたいな何とも言えないものがこみ上げてきた。が冷静さを保ちヘルパーさんに「ありがとうございました」と小声でいい、続けてベッドのカーテンを閉めてもらった。

カーテンで遮断された私のベッドは個室状態になり、私はその中で泣いた。声を殺して泣いた。
ずーと泣いた。

やっと動いてくれた。
自分の中では、脳から一番遠い位置にある指に動けという指令が伝われば、指令の通過点である足首、膝、股関節などはやがて動くに違いない、という思い(思い込み)で足指のグーパーを繰り返し行っていた。

F氏やM氏に両手の指が少し動いたときに、「もし足指が動けば歩ける可能性はあるのか」聞いたことがあった。答えはNOであった。
「足指が動く事と歩く事は違う」と冷徹に言われた。ただ歩くためには足指が動かせることが、ひとつの条件要素となる。という事も言われていた。

その先の詳しい話はしなかったが「歩くためのひとつの条件」ならばコツコツと条件を積み上げていくしかないと思った。
ベッドの上で何もせず、時間だけが過ぎていく事だけは避けたかった。

それが今日やっと酬われた、という感じであった。
しかしこのことは誰にも言わなかった。
どうせ「ここまでです」とか「前例がありませんから」と言われるに違いないと思っていた。

その日の夜、天井をみながら思っていたのは、
足指が僅かに動いてくれた期待感と、座る事すらままならぬ躰で、時間をかければ躰はもっと回復するのかという不安が同居し、心が引き裂かれそうな思いであった。

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