オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

遠い昔の記憶

中学生になりたての頃に街角で走り去っていくホンダCB750ccのバイクに一目惚れした。

格好よかった。

自宅近くのホンダSFバイク販売店に行ってカタログを貰って販売価格を知った私は人生初のアルバイトをし自力で購入資金を貯めたのであった。

アルバイトは新聞配達であった。

雨の日も風の日も修学旅行やよっぽどの事が無い限りは休まず3年間新聞が休刊以外のほぼ毎日200軒近く新聞を配り回ったのである。

中学を卒業する頃にはナナハンを購入できる目処が立ち合わせて高校受験に備えて準備もしたのであった。

私の学業は幼稚園、小学校、中学校と全て父親の言いなりで通ってきたが流石に15歳ともなると父の操り人形にはなりたくないと反抗期なのか反骨精神なのか判らなかったが父親が薦める高校に通うのは無性に嫌であったのである。

私は父親が薦める県内高校を受験し合格したが父親が知らないところで県外の高校を受験しそちらに進学したのであった。

このことで父親との関係は完全に崩れ話することも挨拶することも無い奇妙な親子関係となったのであった。

県外の高校となり通学距離は遠くおまけに公共交通機関の乗り継も悪く通学時間は2時間近くを要したのであったが弱音を吐くことは絶対に出来なかったのであった。

高1の夏休みに大型自動二輪の免許証を取得しバイトで稼いだ金で一目惚れのCB750cc俗に言うナナハンを購入しバイクの維持費は適宜バイトしながら満喫したのであった。

この頃のバイトは高校の地理の教員からの紹介で遺跡の土起こしが主であった。
表層の土をスコップで掻き出し猫車(一輪車)で運び出すかなり割がいいバイトであった。

掻き出した後学芸員や専門の先生方が小さなスコップで土器を掘り出し刷毛などで土質を観ながら遺跡を形作る作業をしていたのであった。

流石にその作業はやらせてもらえなかったのは当然の話であった。

土の掻き出しバイトは高校3年間絶えることは無かったのであった。

バイクで高校に行くのが楽しくて仕方なかったがバイク通学が数週間で取り消され落胆するも担任の矢田部先生の自宅までバイク通学し徒歩で登校する高校生活であった。

そんな私のバイクに母親が乗りたいと言うので勿論後部座席に乗せて自宅近くの志賀島海の中道を走ってみせたのであった。

それ以来母親がバイクの後ろに乗るのが病みつきとなってしまったのであった。

春休みなどバイトが休みの時は母親とタンデム(2人乗り)で彼方此方ツーリングしたのであった。

ツーリング先では母親の人生観や私の将来など父親と話さない分、沢山話をした有意義な時間であった。

そんな高校生活も18歳になり普通車の免許取得を企てたが流石に自動車学校に通わないと自動二輪のように直で受験できるほど甘くは無いのは知っていた。

だが先立つものがなく親には頼りたくないし出来なかったので自分で稼いだバイト代で買ったバイクを手放して資金を工面するしか無かったのであった。

思い出の詰まったナナハンであった。

辛い別れであった。

ラストランは勿論母親を後ろに乗せて初めて母親と走った志賀島海の中道をタンデムしてお別れをしたのであった。

その時のことが頚髄損傷の50歳になっても私の脳裏に蘇ってくるのであった。


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