母と同居する頚髄損傷の私
50歳を迎える頃に郷里の母がやっと仮同居することになり羽田まで車で迎えに行ったのであった。
生活に必要な荷物は事前に宅急便で送っていたので全日空の職員に付き添われた母は手提げバッグをひとつ持ってゲートに現れたその容姿に目頭が熱くなった。
こみ上げてくる感情を抑え職員にお礼を言って駐車場まで言葉少なく母の横を改めて歩くと子供の頃には見上げ威厳もあった母がこの時はこんなにもか弱く前屈みで歩く姿に老いる切なさを感じたのであった。
羽田から自宅までは高速などを走り約2時間車程かかったが後部座席に座る母から話しかけることはなく窓に流れる風景を黙って見ていたのであった。
母の横顔をバックミラー越しに見る度にこの何十年もの思いが私の不甲斐なさとなって申し訳ない気持ちで一杯であった。
高速のSAに立ち寄り自販機でコーヒーを買いベンチに腰掛け2人マイルドセブンを吸った。
私は母に「東京で吸うタバコは美味いかい」と尋ねるとはにかんだ表情が返ってきたのであった。
クルマに戻り母を助手席に座らせシートベルトをしてあげ今度は2人前を向いて高速を走ったのであった。
横浜ICを過ぎた頃夕焼け空になり山の端がくっきりと切り絵のように見えてきたのであった。
その暮れなずんでいく空を見ながらと母が富士山は見えるとねと話しかけてきたのであった。
もう少し走ると小さいけど左の方に見えてくるよと答えたのであった。
海老名あたりにさしかかると左奥に富士山の頂が少しだけ見えたので母に見えてきたよと言うと「どこねどこね、いっちょんわからんが」と久しぶりに聞く本場の方言が嬉しかった。
海老名SAに入り帳面に絵を描いてこの辺に小さく見えるからと話しクルマを出したのであった。
厚木あたりに来るとほら見えるよと言うと「どこね」とまた判らずじまいでほらあそこに見えるよといっても見えてない様子で「富士山はこんな形ばしとろうが」と右手で富士山の三角形を書いているのであった。
それを見たとき母が思い浮かべる富士山はきっとコマーシャルに出てくるような富士山だからほんの先っちょしか見えない富士山の頂きは判らないんだな~と思ったのであった。
暫く走るとさっきまでの切り絵の世界はすっかり日が暮れてあたりは真っ暗となり私の家に着いたのであった。
車庫に停めエンジンを切ったときさっき羽田で感じた妙な感覚は消えていたのであった。
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