オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

風呂掃除と激痛と

やもめ暮らしの家の掃除は決して綺麗と言えたものではないことは自覚していた。

母と同居し始め直ぐに綺麗な風呂に毎日入れるようにと親孝行の真似事の如くその日は朝から風呂場の隅々まで綺麗に掃除しようと意気込んでいたのであった。

手始めに浴室の天井を見上げると黒いカビが点在しており以前から気になっていたがほったらかしにしてあった所から攻めることにしたのであった。

湯船の縁に乗っかり黒い点々を指先で撫でるとやはり黒カビであった。

早速カビ取り剤のスプレーを天井一杯に万遍なくスプレーし使い方説明にあった通りに暫く放置した。

その間に壁を洗い床を洗い鏡のウロコを除去しいよいよ残すは天井のみであった。

天井に水を掛け黒カビの取れ具合を確かめてみたが完全に取れてなかった。

商品に偽りありじゃないかと思った。

この黒点を完璧に取りたかった。

そんな自分の性格が時々嫌になる。

指先でしごいても取れないのでスポンジに洗剤を染みこませ湯船の縁に乗っかり天井を擦りまくったのであったが奴も中々しぶとく点々は薄くなったがまだ残っていたのであった。

洗剤を換えて右手にスポンジ左手にスクレーパーを持ち再度湯船の縁に乗り上を向いた瞬間であった。

それは一瞬であったがやたら長く感じた時間でもあった。

無重力を味わった後に首に激痛が走りその場で唸るだけしか出来なかったのであった。

私は唸りながら何が起きたのか直ぐに理解したのであった。

ただこの激痛は遠い昔に味わった痛みであることを鮮明に思い出したのであった。

湯船の縁に乗っかり上を向いた瞬間に滑って80センチメートルの高さから受け身をすることもなく湯船の底に尻から落下してその衝撃がモロ首にきたのであった。

そのけたたましい音に母親が駆け込んできた。

私の姿を見て何が起きたのか母が理解できたかは定かではなった。

暫くの間湯船の中で唸る私と傍らに立ち尽くす母に交わす言葉は無かったのであった。

湯船の中で体育座りの体勢から兎に角早く抜け出し横になりたかったのであった。

湯船の縁に両手をかけ何とか立ち上がろうとするが首に激痛が走り美味く立ち上がることが出来ないのであった。

痛みが治まるのを待って騙し騙しゆっくりと立ち上がることが出来たが態勢を変える度に激痛が襲い掛かりやっとのことで這い出て浴室の床に仰向けになれたが激痛が治まるのを待つしかなかったのである。

黒い点々を見ながらなんだか嫌な事が待ち構えているようで慣れない親孝行など罰が当たったのだろうかと後悔する日であった。

母と同居する頚髄損傷の私

50歳を迎える頃に郷里の母がやっと仮同居することになり羽田まで車で迎えに行ったのであった。

生活に必要な荷物は事前に宅急便で送っていたので全日空の職員に付き添われた母は手提げバッグをひとつ持ってゲートに現れたその容姿に目頭が熱くなった。

こみ上げてくる感情を抑え職員にお礼を言って駐車場まで言葉少なく母の横を改めて歩くと子供の頃には見上げ威厳もあった母がこの時はこんなにもか弱く前屈みで歩く姿に老いる切なさを感じたのであった。

羽田から自宅までは高速などを走り約2時間車程かかったが後部座席に座る母から話しかけることはなく窓に流れる風景を黙って見ていたのであった。

母の横顔をバックミラー越しに見る度にこの何十年もの思いが私の不甲斐なさとなって申し訳ない気持ちで一杯であった。

高速のSAに立ち寄り自販機でコーヒーを買いベンチに腰掛け2人マイルドセブンを吸った。

私は母に「東京で吸うタバコは美味いかい」と尋ねるとはにかんだ表情が返ってきたのであった。

クルマに戻り母を助手席に座らせシートベルトをしてあげ今度は2人前を向いて高速を走ったのであった。

横浜ICを過ぎた頃夕焼け空になり山の端がくっきりと切り絵のように見えてきたのであった。

その暮れなずんでいく空を見ながらと母が富士山は見えるとねと話しかけてきたのであった。

もう少し走ると小さいけど左の方に見えてくるよと答えたのであった。

海老名あたりにさしかかると左奥に富士山の頂が少しだけ見えたので母に見えてきたよと言うと「どこねどこね、いっちょんわからんが」と久しぶりに聞く本場の方言が嬉しかった。

海老名SAに入り帳面に絵を描いてこの辺に小さく見えるからと話しクルマを出したのであった。

厚木あたりに来るとほら見えるよと言うと「どこね」とまた判らずじまいでほらあそこに見えるよといっても見えてない様子で「富士山はこんな形ばしとろうが」と右手で富士山の三角形を書いているのであった。

それを見たとき母が思い浮かべる富士山はきっとコマーシャルに出てくるような富士山だからほんの先っちょしか見えない富士山の頂きは判らないんだな~と思ったのであった。

暫く走るとさっきまでの切り絵の世界はすっかり日が暮れてあたりは真っ暗となり私の家に着いたのであった。

車庫に停めエンジンを切ったときさっき羽田で感じた妙な感覚は消えていたのであった。


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遠い昔の記憶

中学生になりたての頃に街角で走り去っていくホンダCB750ccのバイクに一目惚れした。

格好よかった。

自宅近くのホンダSFバイク販売店に行ってカタログを貰って販売価格を知った私は人生初のアルバイトをし自力で購入資金を貯めたのであった。

アルバイトは新聞配達であった。

雨の日も風の日も修学旅行やよっぽどの事が無い限りは休まず3年間新聞が休刊以外のほぼ毎日200軒近く新聞を配り回ったのである。

中学を卒業する頃にはナナハンを購入できる目処が立ち合わせて高校受験に備えて準備もしたのであった。

私の学業は幼稚園、小学校、中学校と全て父親の言いなりで通ってきたが流石に15歳ともなると父の操り人形にはなりたくないと反抗期なのか反骨精神なのか判らなかったが父親が薦める高校に通うのは無性に嫌であったのである。

私は父親が薦める県内高校を受験し合格したが父親が知らないところで県外の高校を受験しそちらに進学したのであった。

このことで父親との関係は完全に崩れ話することも挨拶することも無い奇妙な親子関係となったのであった。

県外の高校となり通学距離は遠くおまけに公共交通機関の乗り継も悪く通学時間は2時間近くを要したのであったが弱音を吐くことは絶対に出来なかったのであった。

高1の夏休みに大型自動二輪の免許証を取得しバイトで稼いだ金で一目惚れのCB750cc俗に言うナナハンを購入しバイクの維持費は適宜バイトしながら満喫したのであった。

この頃のバイトは高校の地理の教員からの紹介で遺跡の土起こしが主であった。
表層の土をスコップで掻き出し猫車(一輪車)で運び出すかなり割がいいバイトであった。

掻き出した後学芸員や専門の先生方が小さなスコップで土器を掘り出し刷毛などで土質を観ながら遺跡を形作る作業をしていたのであった。

流石にその作業はやらせてもらえなかったのは当然の話であった。

土の掻き出しバイトは高校3年間絶えることは無かったのであった。

バイクで高校に行くのが楽しくて仕方なかったがバイク通学が数週間で取り消され落胆するも担任の矢田部先生の自宅までバイク通学し徒歩で登校する高校生活であった。

そんな私のバイクに母親が乗りたいと言うので勿論後部座席に乗せて自宅近くの志賀島海の中道を走ってみせたのであった。

それ以来母親がバイクの後ろに乗るのが病みつきとなってしまったのであった。

春休みなどバイトが休みの時は母親とタンデム(2人乗り)で彼方此方ツーリングしたのであった。

ツーリング先では母親の人生観や私の将来など父親と話さない分、沢山話をした有意義な時間であった。

そんな高校生活も18歳になり普通車の免許取得を企てたが流石に自動車学校に通わないと自動二輪のように直で受験できるほど甘くは無いのは知っていた。

だが先立つものがなく親には頼りたくないし出来なかったので自分で稼いだバイト代で買ったバイクを手放して資金を工面するしか無かったのであった。

思い出の詰まったナナハンであった。

辛い別れであった。

ラストランは勿論母親を後ろに乗せて初めて母親と走った志賀島海の中道をタンデムしてお別れをしたのであった。

その時のことが頚髄損傷の50歳になっても私の脳裏に蘇ってくるのであった。


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高1の担任との出会い

16歳の夏に新聞配達で貯めたお金で憧れのナナハン、ホンダCB750ccを購入し嬉しさとこれで何処へでも行ける自由を手にした私は有頂天であった。

夏休みは朝早くからワインディングロードを走り回り誰とも連むことなく独り風を感じながら気ままで自由な時間を満喫し走り回っても帰宅すると宿題や勉学にも勤しみ高1の夏休みを終えたのであった。

2学期が始まり私は早々にバイク通学を申請した。

私が通う高校は自宅からは遠く県外であったので担任の矢田部先生に申請書を提出し程なくしてバイク通学が認められ証明シールをフェンダーに貼り意気揚々と通学していた。

ところが数週間後、突然職員室に呼び出されたのであった。

呼びだされた理由はなんだろうと職員室に向かう途中、バイクで交通違反などしたこともないのにと色々思い浮かべたが見当が付かなかったのである。

矢田部先生の席に行くとバイク通学の規定に違反しているとの事であった。

「なにが」という感じであった。

矢田部先生から言われたのは
「排気量がデカすぎる。校則では125cc以内に限るとのこと」

「そんな今更、生徒手帳に排気量の記載は無く申請用紙にも記載されておらず後出しジャンケンじゃないか」と主張したが受け入れてはもらえなかったのであった。

いくら話しても平行線であった。

私は渋々駐輪場に停めてあったバイクから証明シールを剥がし矢田部先生の席に返しにいくと

矢田部先生から「明日から私(矢田部)の家までバイクで来るか」と思いもよらぬ話をされたのであった。

はじめは意味が理解出来ずにいたが矢田部先生から「通学距離が長く交通機関も乗り換えなど不便な事を知っているし1度許可しておいて校則にも排気量制限を記載してない落ち度もあり、色々考えた末の事だ」と言われたのであった。

話を聞くと矢田部先生の自宅は学校まで徒歩5分でありながら車で通勤しているので「家の駐車場にバイクを停めスペースもあり皆には内緒だが通学するのはどうだ」と言うものであった。

私は二つ返事で「ハイ。有難うございます」と言ってバイクに跨がり帰宅したのであった。

明日からバイク通学が出来る喜びで交通量の少ない田舎道で時折スラロームしながら帰宅したのであった。


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母との暮らしに思い出すバイク

私が50歳を迎える頃に郷里の母が私の家で仮住まいとして同居することになった。

母には理由を聞かず好きなだけこの家で暮らして良いんだからねと伝えて2週間後に羽田空港まで迎えに行く事を伝えたのであった。

そう伝えた後、母の気持ちを思いやった。
母の2人の妹が立て続けに亡くなり、気丈に振る舞っていた母であったが近くに暮らす実の娘とは益々そりが合わず日々の暮らしに寂しさがこみ上げ気の合う私と少しの間暮らす事を決断したのであろう。と推察したのであった。

母とは子供の頃から親子と言うより一種独特な友達というか仲間というか、私が中学生位からそんな感情を覚えたのであった。

極めつけは私が高校生になって直ぐのことであった。

私は子供の頃からバイクや自動車に興味があり16歳でバイクの免許が取得出来ることを知り、中学生になるとバイクを買うために初めて新聞配達のバイトを皆勤賞で3年間休まずしたのであった。

高校に入学し7月で16歳になった翌日には試験会場に行き自動二輪の受験をした。

学科は一発合格したが実技は一旦停止動作が曖昧で不合格となり、7月下旬から始まる夏休み初日に再受験を受け見事合格し免許を所持したのであった。

なんかものすごく嬉しかった。
人生最大の慶びを感じたのであった。

翌朝にはボロボロになったCB750のカタログと新聞配達で稼いだバイト代が入った巾着袋を持って自宅近くのホンダバイクの代理店に駆け込んだのであった。

新車価格40万円ほどであったが任意保険や税金など含めて支払ったが巾着袋に残ったのは2千円ほどであった。

50歳代のバイク屋の社長が私のことを覚えていてくれた事も有り店に飾ってあったヘルメットとグローブをどれでも良いからサービスすると言ってくれたのでショーエイの白色のフルフェースと銘柄は忘れたが本革のグローブをのオマケしてもらった。

納車は配達してもらわず1週間後に販売店に出向いて行ったのである。

16歳の暑い夏であった。

しかし楽しい時間はそれほど長くはなかった。

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期待外れのセカンドオピニオン

顔と腕以外に拡がった斑点の正体が判らないまま悶々とした空しい時間だけが過ぎたのであった。

T大学病院で献身的に検査してもらったが斑点が出現した原因にはたどり着けなかったのであった。

結果として処方されたのが斑点が痒いときに塗る軟膏と月に1度の経過観察の受診だけであった。

それでも特段の変化は無く半年が過ぎたのであった。

私は憂鬱な気持ちを打ち消すために都心にある国立がんセンターに紹介状無しでセカンドオピニオンを受診したのであった。

受付で要件を話すと皮膚科に回されたのであった。

この病院は全国から訪れるがん患者が多く待合室でひたすら待たされたのであった。

皮膚科の待合室で待つこと2時間やっと私の名前が呼ばれ診察室に入ると30代半ばの女医であった。

私は20代前半で頚髄損傷となった既往歴など詳細に話たのであったが女医に傾聴する姿勢は感じられなかったのである。

それでも全身に拡がった斑点についてこれまでT大学病院で検査した内容を必死の思いで伝えたのであった。

私の話が終わると診察室のベッドに横になり全身の斑点を目視しアッサリとがんではないとの診察結果であった。

この病院で受診すれば斑点が出現した原因が分かるのではないかと期待をしてきたがT大学病院よりも献身的な診察はされず目視だけの診察であった。

家を出てから数時間かけた割には10分程度の診察で終わりかよとただただ空しさと怒りに似た感情がこみ上げてきたのであった。

追い出されるように診察室を出されカルテを持って精算処理をするにも1時間程待たされこんな冷たい無機質な病院を受診した事を後悔するばかりであった。

それ以来T大学病院の経過観察の受診頻度は下がり終いにはなるようにしかならないと勝手に思い込み医食同源を常とした食生活や規則正しい日常を過ごすことで自分の身体を維持するモチベーションとしたのであった。

その後も斑点は出現したが神経質に捉えずまた出来たかと思うようにしたのであった。

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原因究明ならずセカンドオピニオンに期待

顔と腕以外に斑点が出現し原因究明の検査入院を1週間しあらゆる検査を実施したと担当医から言われたが検査結果に疑わしい数値は何もなく退院し暫くの間は皮膚科に通院するようにと指示がでたのであった。

完治しなくともせめて原因だけでもと期待していたのであったがかなわなかったのであった。

T大学病院は全国から患者が押し寄せてくる感じで予約していても通院の日の待ち時間は2時間はざらであった。

待合室で名前を呼ばれるまで待つのは辛い物があった。

やっと名前をよぱれ症状を伝えると皮膚科の主治医は当初全身に拡がった300個程の斑点の症例が珍しいのか検査入院の以外の検査を熱心に行っていたのであった。

通院の度に検体を採取し検査したりと熱心に寄り添った感じであった。

しかし何も異常値が発見できなくなると問診や触診も形骸化し無機質な処置をされるだけであった。

この通院に半日潰し何も進展もなく決まって痒み止めの軟膏を処方されるだけの通院は憂鬱になり流石に嫌気もさし半年で通院しなくなったのであった。

頚髄損傷の後遺症の1つなのか判らないが身体に異常な症状が現れるのに原因不明で西洋医学の限界なのか?

都心にある国立がんセンターセカンドオピニオンを受診することにしたのであった。

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