不甲斐なさと惨めさと
母との同居生活の話が立ち消え暫くの間何事もなく時間だけが過ぎていった。
管理職となり構成人員が150名と拡大する中、会社の健康診断で不整脈が出現していることからT大学病院の紹介状を受け取る羽目になったのであった。
これまでも日常生活で不整脈の自覚症状や健康診断で不整脈を指摘され経過観察程度だったものから紹介状を出されるとは思いもよらなかったのである。
しかしこの頃私の体内で異変が起こっていたのであった。
それは腰のあたりに痒みが出て丁度蚊に刺されたあとのように皮膚が盛り上がり暫くすると痒みは治まる。
数日後、別の場所が痒くなり同じような症状が繰り返し出ていたのであった。
鏡越しに腰の痒いところを観ると数日前に痒かったところがドス黒い血豆色の斑点となりその数も日を重ねる毎に増えていったのであった。
これはただ事ではないと不整脈と併せて人間ドックを予約したのであった。
予約はしたものの体内で何か異常が起きている。
臓器の機能不全の現れか、とてつもない不安がこみ上げてきたのであった。
人間ドックを受診する頃には痒くなる範囲が拡がり痒みが治まったあとのドス黒い斑点の数が更に増えていったのであった。
斑点は顔と腕には出現することはなくシャツやズボンで隠すことが出来たので日常生活では周りには気付かれる事なかったのが唯一の救いであった。
しかし大浴場やプール等裸になると胸や腹部、背中、臀部、両脚とほぼ全身に斑点に覆われていたので姿見に映る鏡の中の姿は自分でもおぞましく憂鬱になるのであった。
1泊2日の予定で人間ドックを受診したが不整脈は経過観察となり予想通りの結果であったがどす黒い血豆色の斑点の原因は判らず血液、レントゲン、MRI、生検とあらゆる事を推察し検査を行ったが異常値は見つからず原因不明で担当医からはこのような症例は初めてとの事からもう少し検査を継続するとの事からそのまま検査入院を1週間延長することになったのであった。
私はベッドに横たわり20代前半の青春真っ只中に頚髄損傷で約2年間の入院生活を送り退院後は障害が残る身体で活動量も制限された中、紆余曲折を繰り返し40代後半まで自活しなんとか乗り越えてきた矢先に医者も判らない、原因不明の異常な症状だけが出現している事に自分の人生の不甲斐なさと惨めさが私を支配していたのであった。
独特な家庭環境下で育つ
会社の仕事も順調に日々の暮らしは充実し且つ平凡に過ぎたのであった。
叔母さん2人が亡くなり母も寂しいだろうからと同居することを告げてから半年が過ぎだ頃に電話で同居することを伝えるがまだ気持ちの整理が出来ないとのことから上京することをためらっていたのであった。
母は産まれてからいちども郷里を出たことが無いのと見知らぬ土地で暮らすことにためらいがあることは承知していたが独り住まいをさせるのも心配であったが頼みの姉と母は折り合いが悪くとてもじゃないが2人が同じ屋根の下に住むことは端から無理であった。
その理由は姉も私も幼少の頃から独特な家庭環境下で育ったことに起因していたのであった。
姉も私も父親に対して恐怖心しかなかったのであった。
小さいときから箸の持ち方、食べ方、家の中での過ごし方など俗に言う父親の躾が厳しかったのであった。
更に中学卒業まで門限は17時と決められ、しかも学校で学んだことを夕食時に毎日報告しなければならず生半可な説明をすると正座して父親の説教を食らうのであった。
そんな父親に対して姉も私も嫌悪と憎悪の塊でしかなかったのである。
姉と私は学業は必然的に叱られないように躾面でも常に良い子にしていなければと本音ではなく父親から叱られないような行動をとっていたのであった。
その反動で父親が仕事の出張で留守になるととめどもなく解放された時間を満喫し普段ではあり得ないほどの幸福を感じていたのであった。
そんな家庭環境下で姉のストレスのはけ口が徐々に母親に向けられたのであった。
一寸の事で何ともないことなのにいざこざがあり母と姉がよく口げんかをしていたのであった。
その結果、姉は最後に「何であんなお父さんと結婚したの」と捨て台詞を吐いていたのであった。
姉が思春期で反抗期になると口げんかはしないものの母を無視するようになってしまい完全に母姉の距離は互いに離れてしまったのであった。
私は私で高校生頃から父親との距離を空けるようになり、こちらから話しかけることなど皆無になったのであった。
だだ母親とは普通に会話するし時には友達のような言葉遣いで会話をしていたので姉よりも私を贔屓していたのを実感したのであった。
そんな過去がある姉に母の一人暮らしが心配であることを伝えても快く引き受けてくれなく、母は母で姉の世話にはなりたくないと口にするばかりで進展させることは出来なかったのであった。
またもや母の説得工作に失敗したのであった。
辛い別れ
40代後半になると辛い別れがあった。
お世話になった叔母さんが立て続けに亡くなったのであった。
母には2人の妹と2人の弟の計5人弟妹であった。
母の双子の次女の静江叔母さんは脳梗塞で入院し母に看取られて亡くなり、49日も経たない内に3女の綾子叔母さんが通勤途中に動脈瘤断裂で路上で倒れ救急車で運ばれたが既に死亡していたとのことであった。
私が幼い頃から静江叔母さんのことをしーちゃんと呼び、綾子叔母さんのことは綾子ねーちゃんと呼び非常に可愛がって貰えた。
弟妹の中でもこの叔母さん2人が一番好きであった。
いずれも亡くなった時、私は海外出張中で告別式に参列できず異国の地からお別れをしたのであった。
私は2人の叔母さんの死と忘れかけてた自身が20代前半で頚髄損傷で生き死にをさまよった人生と重ね合わせたのであった。
人の死とは儚くもあっけないものだと痛感したのであった。
それから半年後に帰国し墓参りをするために久しぶりに母と再会をしたのであるが、余りにも小さくて弱々しい姿を目にしたとき涙がこみ上げていたのであった。
母と墓参りをしたあと、落ち着いたら一緒に暮らさないかと打診したのであった。
40代半ばの頃
頚髄損傷から20年が過ぎ、不自由な身体であったがそれなりの収入と住処を手中に収めていた私も世間で言う中年オヤジの年代であった。
月曜から金曜まで判子を付いたような暮らしぶりであった。
通勤は自家用車で8時に家を出て8時半には職場の机に到着する距離で渋滞もなければ人混みやラッシュアワー等無縁であった。
通勤は毎日違うスーツに合わせてワイシャツ、ネクタイ、靴下、ハンカチ、靴の組み合わせをパターン化していたので出勤時に何を着ていこうかと悩むことは一切無かった。
通勤着をパターン化すると楽であったが、服を着る高揚感は一切無かった。
こんな中年オヤジでも拘りはいくつかあったのであった。
それは匂いであった。
アラミスの臭いが好きであった。
私が担当する部課には、男女比率50:50ということもあり、会議や打ち合わせで近距離になることも多々あったことから私なりに気遣いをしたのであった。
臭いは大切なエチケットの1つであることを痛烈に感じた事があった。
それに気づかされたのはとある管理職の中年オヤジばかりでの会議であった。
私は少し遅れて会議室の扉を開けるとなんとも言えない鼻を突く不快な臭いで、なんだこの酷い臭いはと会議どころではなかったのであった。
俗に言う加齢臭の集合体であった。
これがオヤジ達の臭いか~と吐き気を伴ったのであった。
もしかして私も同じ臭いがしているのかとそれ以来
体臭を消すためにオードトワレやコロンを機会がある毎に手にしてやっとアラミスに落ち着いたのであった。
アラミスの香りには弊害もあった。
私はネクタイの裏にほんの少しアラミスを染みこませていたが、ほのかに香るアラミスの残り香で私の居所や後ろを通るだけで私ということが判ってしまうのであった。
ただアラミスを誰か判らないがもう一人愛用していて、立ち寄ることもない場所なのに課員から昨日何処何処に居たでしょう?と言われたりするのであった。
それがアフターファイブの街中の身に覚えがない如何わしい店だったりすると、はじめは事実無根と説明していたが、説明も必死になればなるほど弁解しているように思え説明も面倒くさくなったのであった。
アラミス=私という構図が出来た時期であった。
研修所と化した我が家
3LDKの戸建を購入し1ヶ月経った頃の夜のことであった。
入浴中に湯船に浸かっていると激しい揺れを感じたのであった。
初めは湯船に浸かりすぎノボセたのかなと思ったが地震であった。
揺れは長かった。
風呂場にいても家中からきしむ音やビビり音が響きこのまま家が倒壊するのかと思うほど長く揺れるのであった。
揺れが収まり風呂から出た私は家の壁や柱などを見て回ったが異常がなく安堵したのであった。
自然災害の前では無力であるが心の何処かで自分だけは大丈夫だと言い聞かせてもいたのであった。
折角手に入れた家を災害で失ったら等としばらくは興奮状態で家を買ったのを少し後悔した自分がいたのであった。
その後は自然災害など無く平穏な日々を送り、隣近所との付き合いや顔見知りなども増えていったのであった。
私は帰宅後直ぐに2階に上がり寝室で部屋着に着替え就寝するまでリビングにいるので他の部屋には掃除以外立ち入ることは無かったのであった。
独身で戸建に住んでいることが隣近所に知れ渡ると
部屋が余ってしょうがないでしょう等と冷やかされることも多々あったのであった。
3LDKの間取り
早いとこ田舎の母と同居する事を実行しなければと母に連絡しそれとなく話すが母からは良い返事はもらえなかったのであった。
母曰く、田舎を出て見知らぬ地で暮らす不安と双子の妹の静江と離れて暮らすのは申し訳ない気持ちだと言うのであった。
母には弟妹5人いたが、静江を除きそれぞれ家を出て母の面倒は永い間、静江独りに診させてしまい昨年その母親が亡くなり、まだ日も浅く今は静江と離れて暮らすわけにはと言うものであった。
と言う事からもう少し時間を空けて様子を見ることにしたのであった。
そんなこんなで月日が経ち我が家に部下達がグループ研究と称して集まるようになったのであった。
きっかけは独身の私に部下が「結婚相手を連れて遊びに行きたい」との申し出に、勿論快諾したのであった。
一般的な上司であれば奥さんの手料理などで持てなすのだろうがなんせ独身の私は家庭臭さとは無縁であった。
せめて部屋の掃除と酒やお菓子等を買いそろえるのが関の山であったが、いずれにしても初めての客人を招き入れる準備をしたのであった。
それ以来何かあると研修所化していったのであった。
そのたびに布団や食器、コップなど一通り揃って増えていったのであった。
大概5~6名が来てはリビングのフローリングに車座にに座り何やら討議をはじめるが暫くすると一番下っ端の者が酒を買い出しに行き、いつの間にやら酒盛りがはじまるのであった。
頚髄損傷でも家を買う
障害者手帳の3級を交付れたが交付されたからといって交付される前に思い描いていた後ろめたさや自分を卑下する感情はそれほど増幅することなかったのである。
暫くしてから世の中はバブル経済の崩壊などの余波を受けて市場は冷え込んでいたが不動産関連は高値の残像が残ったそんな時代の中にいたのであった。
バブルが弾け企業倒産が毎日報道され、下がることがないと言われた地価も値下がり不動産神話が崩壊していく時であったが私は無性に家を構えたくなったのである。
ただ身体障害者に住宅ローンの融資審査が通るのか不安であったが、ダメ元で申請をしたのであった。
申請後暫くしてから難なく35年ローン審査が通ったのであった。
しかし、身体障害者ということで住宅生命保険には入ることは出来なかったのである。
ローン支払中に不就業に陥っても住宅ローンの残債を保険で賄う事が出来ないのであった。
自分に何かあったらと思ったが心配ばかりしていても前に進めないと思い審査を受けて知り合いの不動産会社に依頼し、会社から車で15分程離れた建売の戸建を購入することにしたのであった。
先輩や同僚からは、「独身で戸建ですか~!」等と冷やかされたが庭付き戸建に住み、車で通勤することで、20代前半に頚髄損傷で四肢不全麻痺となり自活できるのか不安であった時期の自分を払拭し人並の暮らしを手に入れたいと思っていたのであった。
その象徴が家だった。
契約後直ぐに引っ越したのであった。
荷物は少なく部屋はスカスカ状態でどこから観ても独身の佇まいであった。
一部上場企業に務め定年までお世話になる覚悟を決めてから気になったのは田舎で独りで暮らす母親の事であった。
母は私のよき理解者であった。
私が産まれてから3歳上の姉とは違い全然手が掛からない赤ちゃんだったと何かにつけて話してくれたのである。
夜泣きするこもなく物静かで言葉を中々発しないことや同い年の子供と比べ異様に頭が大きいので水頭症で発育異常を来し言葉少なく泣くことも出来ないのではないかと疑い色々大学病院で診察して貰ったが、ただ単に頭でっかちの赤ちゃんだったと診断されるばかりであったが最後まで母の疑いは払拭出来ずこの子は不憫と思っていたのだと言っていたのを思い出すのである。
それ故母は姉よりも精一杯の愛情を私に注ぎ込んだと言っていたのであった。
そんな話を聞いて思い出すのは自分でも不思議とおもちゃをねだったりわがままを言った覚えが無い事であった。
私は幼稚園に入る前から中学卒業まで叱られた記憶はなく川釣りに目覚め小学生に上がった頃から中学を卒業するまでの春、夏休みの期間中、毎日弁当を作っては私に持たせ送り出してくれる母親で勉強や宿題はしたの~なんて言葉は聴いたことはなかったのである。
そんな母は昭和4年生まれで女3人男2人の5人弟妹の長女であった。
直ぐ下の妹の静江とは一卵性双生児であった。
私は静江さんの事を「しーちゃん」と呼んでいた。
母が産まれた昭和初期は、双子で産まれたことをよく思う慣習がない土地柄であった。
村八分にされてしまうのを恐れ出産後は何かと人目のつかぬように苦労したようで隣近所や親戚にも極力隠していた時代だったのである。
実の子の私にも中学生になるまで母としーちゃんが双子であることを明かさなかったのであった。
中学3年の時、母から双子で産まれたことを聴かせれ、自分の生い立ちを普通に言えなかった母の想いを察すると子供心に母の人生は悲愴で「僕が大人になったら母孝行するからね」なんて話をしながら2人で泣いたこともあったのである。
そんなこともあってか、この家で母と暮らすことを母に内緒で計画したのであった。
身体障害者手帳を申請する
務めていた会社の開発部門が都内から関東圏の郊外に移転し、上司のお宅に間借りする環境でスタートした新天地での生活は徐々に息苦しさを感じ、半年後には間借りを解消し、はじめた独り暮らしは頚髄損傷で躰に障害があるが時間をかけて創意工夫しながら何とか日々を送る生活であった。
会社生活では躰の不自由さが健常者に対する負けん気の元となり身体は不利でも頭脳を鍛えて対等に成果を出そうと自分を鼓舞しながら結果的にはその功績が認められて30代半ばで管理職として従事する事になったのであった。
その後も会社生活を満喫し海外出張を何度となく経験させて頂き見聞録を広めることも出来ていろんな国の課員と関わりながら管理職の困難さや楽しさを学んで自己研鑽が出来たのであった。
そんな中、人事部長と雑談しているときに障害者雇用政策の一環で企業は従業員の〇%以上障害者を雇用するようにとのお国からのお達しがあるので障害者手帳の申請をしてはどうかと打診されたのであった。
頚髄損傷となり入院していた当時の主治医からも私の回復見込みはここまでとの判断から障害者申請を打診されたのであった。
しかし私の中ではまだ努力すれば回復するはずだと信じていたし障害者手帳を所有することは自分で自分を諦めることになってしまうという愚考しかなく申請を断ったのであった。
また手帳を申請し所有することで自分は完全に障害者となってしまう事への抵抗感と哀れみを乞う気がして申請はせずに社会復帰していたのであった。
しかし時間の経過と共に人事部長との話を機に色々調べると知らないことだらけであった。
上下水道の半額負担、NHKの視聴料補助や更に車購入時の諸経費である取得税や自動車税の減免、ガソリン代の補助や高速道路料金が半額になるなど多方面で恩恵がある事を知ったのであった。
色んな事を調べていくうちに、これから中年の領域に入り更に歳を重ね将来を思うと生命保険なども限定されたものしか入れてなかった事に不安が増大してしていったのであった。
不安先行に陥りこれまでの強がった愚考から障害者手帳を所有する方がこれからの人生の保険になるのではないかと考えが変わっていったのであった。
それから程なくして身体障害者認定の病院で筋力の強さ関節の角度の状況などを観察され問診を受けたりし申請手続きを行ったのである。
身体障害者手帳の等級は3級が交付されたのであった。