オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

独特な家庭環境下で育つ

会社の仕事も順調に日々の暮らしは充実し且つ平凡に過ぎたのであった。

叔母さん2人が亡くなり母も寂しいだろうからと同居することを告げてから半年が過ぎだ頃に電話で同居することを伝えるがまだ気持ちの整理が出来ないとのことから上京することをためらっていたのであった。

母は産まれてからいちども郷里を出たことが無いのと見知らぬ土地で暮らすことにためらいがあることは承知していたが独り住まいをさせるのも心配であったが頼みの姉と母は折り合いが悪くとてもじゃないが2人が同じ屋根の下に住むことは端から無理であった。

その理由は姉も私も幼少の頃から独特な家庭環境下で育ったことに起因していたのであった。

姉も私も父親に対して恐怖心しかなかったのであった。

小さいときから箸の持ち方、食べ方、家の中での過ごし方など俗に言う父親の躾が厳しかったのであった。

更に中学卒業まで門限は17時と決められ、しかも学校で学んだことを夕食時に毎日報告しなければならず生半可な説明をすると正座して父親の説教を食らうのであった。

そんな父親に対して姉も私も嫌悪と憎悪の塊でしかなかったのである。

姉と私は学業は必然的に叱られないように躾面でも常に良い子にしていなければと本音ではなく父親から叱られないような行動をとっていたのであった。

その反動で父親が仕事の出張で留守になるととめどもなく解放された時間を満喫し普段ではあり得ないほどの幸福を感じていたのであった。

そんな家庭環境下で姉のストレスのはけ口が徐々に母親に向けられたのであった。

一寸の事で何ともないことなのにいざこざがあり母と姉がよく口げんかをしていたのであった。

その結果、姉は最後に「何であんなお父さんと結婚したの」と捨て台詞を吐いていたのであった。

姉が思春期で反抗期になると口げんかはしないものの母を無視するようになってしまい完全に母姉の距離は互いに離れてしまったのであった。

私は私で高校生頃から父親との距離を空けるようになり、こちらから話しかけることなど皆無になったのであった。

だだ母親とは普通に会話するし時には友達のような言葉遣いで会話をしていたので姉よりも私を贔屓していたのを実感したのであった。

そんな過去がある姉に母の一人暮らしが心配であることを伝えても快く引き受けてくれなく、母は母で姉の世話にはなりたくないと口にするばかりで進展させることは出来なかったのであった。

またもや母の説得工作に失敗したのであった。

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