オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

バブル経済と郷に入れば郷に従え

新たな自活する場所を得て数年後、仕事も体調も順調に世の中はバブル経済のまっただ中であった。

給与やボーナスも右肩上がりであったが、ものの値段も右肩上がりで高騰したのであった。

日本中が狂ったように沸き立っていたのであった。

特に不動産はどこもかしこも高騰していた時代であった。

私も車を購入し、少し羽振りも良かったのであった。

そんな時代に会社方針で米国のミシガン州に商品開発の現地化として研究設計開発部門の拠点を設立する事が決まり、日本から第一陣として100名が送りこまれ、私もそのうちの一人であった。

自社の商品開発プロセスは企画、デザイン、設計、試作・実験の部門からなり凡そ20部署に分かれて担当する業務があり、それぞれの部署から数名が現地に出張したのであった。

5年で商品開発業務を現地エンジニア達で賄えるようにするのが最終目標であった。

現地エンジニアの求人は、米国大手エンジニア派遣会社から紹介されたエンジニア達のキャリアを確認し面接で決めるのであった。

かなり多くの米人達が面接に訪れて来たのであった。

面接は私と雇用契約の専任者とで採用の可否をを決めていたのであった。

私が担う業務プロセスではエンジニア20名と30名のデザイナー、40名のディテイラーを採用したのであった。

アメリカでは職種が分業化されているため、エンジニアは商品開発のコスト、品質、納期、性能を立案し、デザイナーはエンジニアが立案した性能を具現化(形状化)し製造方法などを検討したものを、ディテイラーに伝え図面を描いてもらう仕事の流れであった。

(日本の弊社ではエンジニアとデザイナーを1人で担当し、立案した情報を取り纏め次工程の製図部門で図面を描いてもらう業務形態であった。
繁忙期の時はエンジニア~図面を描くまで1人でこなすこともあった。)

面接で彼らのエンジニア能力やデザイナー能力、ディテイラー能力を推察しながら、加えて私が重視したのが「何故日本の会社で働きたいのか」という気構えであった。
その回答で合否の判断をしていたのであった。

それで何とか3ヶ月を要したが採用を決め、体勢を整える事が出来たのであった。

その後、出張前に予め準備していた育成計画に基づき研修をスタートさせたが、未開の地でやること、なすことすんなりとは行かなかった。

研修を始めて1ヶ月過ぎた頃からOJT、OFFJTを織り交ぜた育成計画に基づき実践したが、毎週金曜日の午後に決まって数名が昼食から戻らず行方不明となるのであった。

戻ってこない輩の行き先を尋ねるが皆は判らないと答えるばかりで、仕方なく残ったメンバーだけに研修を実施したのであった。

行方不明の輩は翌週の月曜日には何事もなかった顔をして悪びれた様子もなく出社するのであった。

2度も同じ事を経験すると流石に、堪忍袋の緒が切れて、現地人に色々聞きまくり判明したのは、採用した米国人達は給与が週給制なので、毎週金曜日に給与が振り込まれるとその数名は食事をしなが酒を飲み、開放されたか如く飲んでしまい会社に戻って来ないということが判ったのであった。

この様な輩は現地では「ヌーナー」と呼ばれていたのであった。

初めて聞く造語であった。

私は、その現実を知り、先行き不安を感じたのであった。

しかし闇雲に「ヌーナー」をやめるよう説教じみたことを言っても変わることはないと確信していたのであった。

私は頚髄損傷になる前に、米国に出張していた経験があり、その時のカルチャーギャップを体感していたからそう思ったのであった。

日本人は、一般的に常識や世間体からくる規律を守ろうとする民族であるが、米国人はそうではない、日本人には無い思考感覚が作用するのか、「ヌーナー」という呼称が有るくらいだから、米国の派遣社員界隈では一般化しているのだろうと思うしかなかったのである。

私は折角整えた体勢で、もう面接はしたくないという思いと「ヌーナー」達には、こちらが求めるエンジニア能力を有するだけに、安易に契約解除はしたくなかったのであった。

契約解除して新たに求人かけて採用にこじつけて、それから研修すると全体の足並みが揃わず、ロスが大きくなることは避けたかったのであった。

何か策を打たなければと、独り悩んで・・・
導き出した答えは「郷に入れば郷に従え」あった。



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⇩我が家の猫達
保護した猫達。着座位置にも猫社会の規律みたいなものが、垣間見れます・・・?
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