オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

入院生活

THE 復職診断

復職診断の当日の朝、私は緊張と憂鬱に包まれていたのであった。10時に上司が迎えに来てくれる事になっていた。朝食を終え、2時間後に会社へ行くが、早く診断を受けたい気持ちもあったが、もし復職NGの場合は、そのまま退職手続きに移行するのでかなり不安な…

残り2週間の入院スケジュール記す

復職診断に備え、設計図を描くのに支障がないことが復職の条件であることから、面会時間終了後の面会室で製図の基礎となる線種を思い通りに描く訓練を手作りの装具を付けてやっていたのであった。その姿を看護師さん達に見られ励ましを受けていたが、「頑張…

これが私の気質だから

設計開発業務での私の主務は、新商品を具現化するための設計図を描くことであったのである。新商品の設計は各部品の強度や耐久性、取り付け方法、メンテナンス性、コストなど色んな要件を満たしながら一本一本線を引いていき形を創造していくが、設計図には…

手描きの設計図は・・・かなりの難関

何時もの時間に何時もの歩く格好で街に繰り出しリハビリをしていたのであった。時々、ジュースを買ったりする商店の店先で休んでいると、店主が初めて声を掛けてきたのであった。「何時も見かけるけど、どうしたの?」と訪ねられ、少し面倒くさいな~っと思…

彼とフィアンセの葛藤

隣部屋の頚髄損傷の患者さんの部屋を出て、自室に戻ってもまだ彼の余韻が残っていたのであった。治癒する怪我ならともかく、頚髄損傷は残酷で絶望しかなく、恐らく隣の彼は頚髄損傷の私が自立歩行している事を聞き、1分の希望を抱き絶望の中から抜け出したか…

頚髄損傷患者の将来展望

高円寺の病院に入院し1ヶ月経つか経たないくらいの時に、私と同じ頚髄損傷で入院している患者さんがひとりいることをリハビリ担当のT氏が教えてくれたが、私は他の患者さんと挨拶は交わすが、入院した事情等は詮索せず、淡々と自分のリハビリに精を出してい…

視線を感じながら・・・それでも歩く

転院して2~3週間ほど経過した。この病院に慣れてきた頃であった。患者さんの殆どが脳血管疾患や頚髄損傷で身体機能が損なわれ、この病院で車椅子の乗りこなしや日常生活に歩行器を取り入れたリハビリ訓練で社会復帰を目指した患者さん達であった。社会復帰…

眠れぬ夜が続く・・・少し憂鬱

転院してきた病院では、これと言った治療は無く社会復帰に向けた日常動作に特化したリハビリ施術を受けていた。病室では台所やお風呂が完備されていて、簡単な自炊や洗い物などが出来、リハビリで汗をかいた後いつでも入浴出来たことは有難い事であった。転…

高円寺から焦らず決意

自室の302号室で上司から会社の状況や組織改革の話などを聞き、復職に向けた段取りなどを共有した。上司を玄関で見送り、病院の外観を眺め、見上げた空は晴天であった。あらためて3階の302号室に入り、部屋を見渡すと1Kでバスとトイレが別々になった小洒落た…

転院先の入院生活はじまる

転院する朝、6時30分頃にいつも通りの検温や清拭が始まり、看護師さんが私の脈をとり「今日で退院ですね」「色々お世話になりました」と会話を交わし最後の検温を終えた。朝食を済ませお世話になったベットを整え、あらためてベッドに横たわり17ヶ月の時間を…

ほろ苦い思い出

転院を2日後に控えた朝に何時もの検温、清拭を終えると検温を担当していた看護師さんがやってきて、耳元で「手紙」と小さな声で囁いた。「えっ」と思った。 彼女を見ると、顔は微笑んでいたが耳たぶが真っ赤になっていた。数日前に枕元に置いてあったその手…

頚髄損傷患者と看護実習生

入院から17ヶ月が過ぎ、同室の患者さんは2~3ヶ月置きに入退院で入れ替わるため、私にはそこまで親しく話をする患者さんはいなかった。 あえて、そうしていたのである。挨拶はすれども一過性の患者さんと世間話に時間を裂くよりは、間近に迫った転院で寸暇を…

ブカブカ洋服と手紙

入院17ヶ月に入り、転院準備で身の回りの整理をはじめていた。ベッド傍のロッカーの扉を開けると17ヶ月前に着ていたジャケット、シャツ、ズボンがハンガーに吊してあった。ベッドの周りのカーテンを閉めて、ズボン、シャツを着てみたがズボンはウエストがブ…

あ・せ・る

入院生活16ヶ月に入った頃、左脚の筋力トレーニングは掴まり立ちして、つま先立ちやウエイトを付けて太腿の持ち上げ、スクワットなど理学療法士のM氏の指導のもと取り組んだのである。だが、左脚の筋力や筋肉にあまり変化は無く、左右の筋肉の付き方はアンバ…

残り3ヶ月の葛藤

入院から15ヶ月。 この頃、私は上半身にコルセット、左脚にはシューホーンブレイス(短下肢装具)を装着していたが、いずれもジャージーの下に装着していたので、立ってる姿は、普通に歩くことが出来る患者にしか見えなかった。車椅子から歩行器でリハビリ室…

頚損で1年以上の辛い入院生活

14~15ヶ月の入院生活は黙々とリハをこなす感じであった。この頃のスケジュール 6:30~検温、排尿排便回数、心拍数、トピック等 8:00~8:30 朝食 9:00~ 9:30 ベッドでストレッチ 9:30~回診(月、木の2回/週) 10:00~11:30 自主トレ (体幹や四肢に負荷を…

羽ばたけるのか?

車椅子で病室からリハビリ室まで自力で移動できるようになった頃から、コルセットを装着し歩行器を使い、リハビリ室内と屋外の平坦な場所で歩行するリハビリが始まった。はじめた頃はM氏が、見守りで付き添い5分歩いて30秒ほど立ったまま休むを1セットとし3…

不格好な躰

入院生活14ヶ月目。 朝目覚めてから21時の消灯までの大半を、自主トレのリハビリが占めていた。両手の動きが期待通りにならずグーパーは出来るが、握力が付かず、右10kg、左2kgであった。指先の細かい動きも困難でボタンがけや針に糸を通す事や、箸で麺を挟…

引越とマイルストーンの移行

頚損患者のK氏が転院してから、私がこの病室で最長患者になってしまった。これまで最長患者だったK氏は、昨日熱海方面のリハビリ専門の病院に転院したのだった。今後、彼と二度と会うことも無いだろうが、どうか穏やかで豊かな人生を育んで欲しいと願った。 …

祝・人生初!!マグマ大使

自主トレを始めてから1ヶ月が過ぎた頃には、理学療法士のM氏が従来の自主トレメニューに新たなメニューを加え、日を追う毎に躰が回復していった。また、その早さに喜びを感じていたのであった。リハビリ室でもM氏が介助しながら車椅子から平行棒の間で立ち上…

自主トレ・はじめる・頚損患者

私が頚髄損傷となり丸一年が経過したころベッドから車椅子に独りで移乗することが出来ず、院内移動も看護師さんに押してもらう状況で自力で車椅子を操り移動することの出来る患者さんを羨ましく思った時期であった。M氏が施術を行うリハビリは日曜日を除き毎…

8,760時間目の葛藤

8月に入り、入院してから1年が過ぎた。23歳で頚髄損傷という人生を破壊してしまう怪我をしてしまい、人生の礎を構築するのに、とても大切な時期を病院のベッドで過ごすことになるとは想定外という程度の言葉では片付けられなかった。この先どんな人生を歩ん…

頚髄損傷患者の名物親子

バルーンカテーテルを取り、自力で排尿する頃から隣のK氏と良く話すようになった。お互い同じ頚髄損傷と言うこともあり、互いの躰の状況がどうなのか、なんとなく比較しながら、一喜一憂していた。K氏は私とF氏の回診を聞いていたらしく、「排尿は自力になっ…

バルーンカテーテルとおさらば

両足の親指が僅かに動きはじめて、私はベッドの上で両腕、両脚、腹筋を順番に動かし、自分なりのリハビリメニューをこなしていた。ベッドを80度くらい起こした状態で両腕の曲げ伸ばしは水平方向で出来るようになった。 左腕は上下方向でも出来たが右腕は出来…

心が引き裂かれそうな夜

手術後5ヶ月が過ぎた頃、私の皮膚の感覚は、毎朝の清拭の感じ方が前日と同じように感じる日もあれば、違う日もあり、また、自分の感覚では曖昧さがあったが、F氏がボールペンでツンツンしながら皮膚の感じる感じないの境界線を日別に引いていた線が、確実に…

頚髄損傷の膀胱炎

手術後4ヶ月過ぎコルセットを装着しながら、ベッドに仰向けでリハビリを受けていた。四肢の各関節の可動域や柔らかさは、リハビリを始めた頃に比べかなり改善されていると理学療法士のM氏が口癖のように言っていた。ただ握力は数百グラム位か、計測器では計…

頚髄損傷(頚損)の入院生活

日本に帰って来て、ハローベストを装着したまま天井だけ見て早1ヶ月。 首から下の躰に感じる痛み、痺れの感覚に変わりなく、体臭が鼻をつき自分でも我慢の限界だった。F氏が回診に来て、「腰辺りに褥瘡(じょくそう:いわゆる床ずれ)が出来たので躰を左右交互…

頚髄損傷で帰国

成田空港から点滴などされたまま民間の救急車に乗せられ、日本医科大学の集中治療室に運び込まれた。 Dr.ノウィッキーと大学の教授、助教授、講師、医局員らが私のそばで話しはじめていた。 Dr.ノウィッキーは、この患者は最終的に松葉杖等を使い自立歩行が…