オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

これが私の気質だから

設計開発業務での私の主務は、新商品を具現化するための設計図を描くことであったのである。

新商品の設計は各部品の強度や耐久性、取り付け方法、メンテナンス性、コストなど色んな要件を満たしながら一本一本線を引いていき形を創造していくが、設計図には、万国共通の図法があるのであった。

図法とは、三角法や一角法であるがその知識は私の脳みそに記憶として万全に残っているので心配はしてないが、頭で考えた形(幾何学模様や自由曲線)を実線、破線、一点鎖線、二点鎖線、太線、細線などといった線種を使い分けて三角法で表現し設計図を描くのであるが、利き手の右手が怪我する前と後では、まるっきり違う動き方になってしまったのである。

鉛筆を強く握れず筆圧が弱く線が一定の濃さで綺麗に引けなかったり、破線のピッチを等間隔で統一できなかったりしたのであった。

また直線を水平方向に描こうと左手で直定規を押さえつけ右手で線を描くが、左手の保持力が弱く直定規がズレてしまい、上手く描けないのであった。
これでは設計図を描くときに用いるドラフターやT型定規、三角定規、雲形定規、コンパスなども同様で、このままでは道具を使いこなすなど100年早いと実感させられたのであった。

リハビリ担当のT氏に相談すると、色々な補助装具を試行錯誤の繰り返しでチューニングし何とか鉛筆の筆圧については改善出来たのであった。
左手の保持については、既存の装具を装着して機能訓練をするしかなかったが、細かい動作には無理があり上手くいかなかったのである。

しかし、ここまで来て諦める訳にはいかなかったので、午後のリハビリで街に繰り出し商店街の文具店や金物店などを散策しながら指サックやゴムバンドアングルなど買い求め、病室で簡易的な装具を作ったりしていたのであった。

自称エンジニアの端くれとして己の指に合う最適解の装具を自作し、それを病院に出入りしている装具士に見てもらいアドバイスや材料を調達して、トライ&エラーを繰り返す日々であった。

毎夕食後の面会時間終了後の誰もいない時に自作装具を身につけ、面会室のテーブルにトレーシングペーパーを拡げ図形を描く訓練をしていたのであった。

面会室のテーブルの高さや天板の表面が滑らかで硬く、鉛筆をトレーシングペーパーの上で滑らかに走らせることが出来るので訓練に適していたのであった。

時々看護師さんが通りがかりに観ては励ましてくれたが、愛想笑いしながらヒマだからとか言って、必死こいて頑張っている姿を見られたくなかったのであった。

幼少期の頃から、これが私の気質だから仕方がないのであった。


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