手描きの設計図は・・・かなりの難関
何時もの時間に何時もの歩く格好で街に繰り出しリハビリをしていたのであった。
時々、ジュースを買ったりする商店の店先で休んでいると、店主が初めて声を掛けてきたのであった。
「何時も見かけるけど、どうしたの?」と訪ねられ、少し面倒くさいな~っと思いながらも、掻い摘まんで話をしたのであった。
時々「あら~」とか「まっ~」の相槌を打ちながら話を聴いていたのであった。
一通り話すと「頑張ってね」と言われ、やっとその場を離れる事が出来たのであった。
ひとまわりしてから病院に戻ると、先日話したフィアンセの方が面会の受け付けをしているところであったが、私は声を掛けることなく後を素通りしたのであった。
それからエレベーターに乗り込み3階に向かい扉が開くと、リハビリ担当のT氏と鉢合わせになったのである。
そこで先日、頚髄損傷の彼と話したことやフィアンセの方とも話したことを伝えたのであった。
T氏は彼のリハビリを施術しリハビリ室に戻るところだったと言って、私たちはホールで立ち話をしていたところへフィアンセの方がエレベーターから降り、私達に軽く会釈をしながら彼の病室に入っていったのである。
私はT氏から「彼が〇〇さん(私)の姿を見て、羨ましいと言っていたことや明日からリハビリ室でリハビリを受けることなど、気持ちを切り替えるきっかけになった。」ということを聞かされたのであった。
その先は聞かなかったが、彼の中で何かふんぎりがついたのであろうと感じたのであった。
私には、人のことよりも自分の復職診断が迫ってきていることの方が気がかりであった。
毎日のリハビリでも、躰の機能の回復は横ばいで、ここに来て、不安な気持ちが増大していたのであった。
復職には自力で通勤出来ること、業務に支障なく従事出来ることの2点が必要条件であった。
自力通勤に関しては杖を突いて連続で歩行するのは200m位で2~3分休み、また歩くを繰り返しながら1km歩くのがやっとであった。
階段については一段ずつしか上り下りが出来ないので入院中に通勤を想定したトライをするしかなかったが産業医がどのように判断するか不明であった。
業務に関しても2つの要件があったのである。
1つはデスクワークでワープロを使い、文書作成が出来ることであったが、ブラインドタッチは無理なので怪我する前と比べてかなり遅かった。
もう1つが、私は設計開発業務に従事しているので開発する商品の各部品の性能や強度を設計図法に基づき描き上げる仕事をしていたが、手描きの設計図は繊細な手の動きが必要とされるのであった。
手描きの設計図は・・・かなりの難関で不安があったのである。