オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

2020-01-01から1年間の記事一覧

母と同居する頚髄損傷の私

50歳を迎える頃に郷里の母がやっと仮同居することになり羽田まで車で迎えに行ったのであった。生活に必要な荷物は事前に宅急便で送っていたので全日空の職員に付き添われた母は手提げバッグをひとつ持ってゲートに現れたその容姿に目頭が熱くなった。こみ上…

遠い昔の記憶

中学生になりたての頃に街角で走り去っていくホンダCB750ccのバイクに一目惚れした。格好よかった。自宅近くのホンダSFバイク販売店に行ってカタログを貰って販売価格を知った私は人生初のアルバイトをし自力で購入資金を貯めたのであった。アルバイトは新聞…

高1の担任との出会い

16歳の夏に新聞配達で貯めたお金で憧れのナナハン、ホンダCB750ccを購入し嬉しさとこれで何処へでも行ける自由を手にした私は有頂天であった。夏休みは朝早くからワインディングロードを走り回り誰とも連むことなく独り風を感じながら気ままで自由な時間を満…

母との暮らしに思い出すバイク

私が50歳を迎える頃に郷里の母が私の家で仮住まいとして同居することになった。母には理由を聞かず好きなだけこの家で暮らして良いんだからねと伝えて2週間後に羽田空港まで迎えに行く事を伝えたのであった。そう伝えた後、母の気持ちを思いやった。 母の2人…

期待外れのセカンドオピニオン

顔と腕以外に拡がった斑点の正体が判らないまま悶々とした空しい時間だけが過ぎたのであった。T大学病院で献身的に検査してもらったが斑点が出現した原因にはたどり着けなかったのであった。結果として処方されたのが斑点が痒いときに塗る軟膏と月に1度の経…

原因究明ならずセカンドオピニオンに期待

顔と腕以外に斑点が出現し原因究明の検査入院を1週間しあらゆる検査を実施したと担当医から言われたが検査結果に疑わしい数値は何もなく退院し暫くの間は皮膚科に通院するようにと指示がでたのであった。完治しなくともせめて原因だけでもと期待していたので…

不甲斐なさと惨めさと

母との同居生活の話が立ち消え暫くの間何事もなく時間だけが過ぎていった。管理職となり構成人員が150名と拡大する中、会社の健康診断で不整脈が出現していることからT大学病院の紹介状を受け取る羽目になったのであった。これまでも日常生活で不整脈の自覚…

独特な家庭環境下で育つ

会社の仕事も順調に日々の暮らしは充実し且つ平凡に過ぎたのであった。叔母さん2人が亡くなり母も寂しいだろうからと同居することを告げてから半年が過ぎだ頃に電話で同居することを伝えるがまだ気持ちの整理が出来ないとのことから上京することをためらって…

辛い別れ

40代後半になると辛い別れがあった。 お世話になった叔母さんが立て続けに亡くなったのであった。母には2人の妹と2人の弟の計5人弟妹であった。母の双子の次女の静江叔母さんは脳梗塞で入院し母に看取られて亡くなり、49日も経たない内に3女の綾子叔母さ…

40代半ばの頃

頚髄損傷から20年が過ぎ、不自由な身体であったがそれなりの収入と住処を手中に収めていた私も世間で言う中年オヤジの年代であった。月曜から金曜まで判子を付いたような暮らしぶりであった。通勤は自家用車で8時に家を出て8時半には職場の机に到着する距離…

研修所と化した我が家

3LDKの戸建を購入し1ヶ月経った頃の夜のことであった。入浴中に湯船に浸かっていると激しい揺れを感じたのであった。初めは湯船に浸かりすぎノボセたのかなと思ったが地震であった。揺れは長かった。 風呂場にいても家中からきしむ音やビビり音が響きこのま…

頚髄損傷でも家を買う

障害者手帳の3級を交付れたが交付されたからといって交付される前に思い描いていた後ろめたさや自分を卑下する感情はそれほど増幅することなかったのである。暫くしてから世の中はバブル経済の崩壊などの余波を受けて市場は冷え込んでいたが不動産関連は高値…

身体障害者手帳を申請する

務めていた会社の開発部門が都内から関東圏の郊外に移転し、上司のお宅に間借りする環境でスタートした新天地での生活は徐々に息苦しさを感じ、半年後には間借りを解消し、はじめた独り暮らしは頚髄損傷で躰に障害があるが時間をかけて創意工夫しながら何と…

頚髄損傷でも現場が一番

管理職になって数年経つと他部署の飲み会にも誘われる回数が増えたのであった。新年会や忘年会、プロジェクトのキックオフ、何かにつけてのご苦労さん会、あちこちの飲み会に担ぎ出されるのであった。飲み会の掛け持ちは当たり前で30分単位で参加した飲み会…

年1の憂鬱

企業は従業員への健康診断を年1で実施するのが義務付けされていたのであった。私は誕生月の7月に受診するのであった。社内の健康管理室に行くと私と同じ誕生月に受診する従業員で溢れかえっていたのであった。その中で心電図や胸のレントゲン撮影で上半身裸…

奥さんからの手紙に感涙した。

私が担当した課は年度変わりの人事異動で新しく立ち上がった当時に比べ倍の人員で構成されていたのであった。私を補佐する課長補佐職も当時は1人だけだったが、この時は3人となり担当業務域も拡大したのであった。そんな中「鬱」の彼にも変化の兆しがあった…

彼を観察する

彼を人事異動で受け入れてから半年が過ぎた頃であった。私は自席から彼の姿を観ていた。 私からは、4メーター先の横向きの彼の姿を捉えていたのであった。俗に言う「作業観察」をはじめたのであった。彼は私が作業観察していることなど知るよしも無かったの…

煙草は心の休養日だった

彼は煙草をふかしながら、何かを思い出すようにゆっくりと話をしたのであった。私は小さい声で話す彼の言葉を一言も聞き逃さないように少し前のめりに傾聴したのであった。彼曰く、「自分が、なぜ鬱になったのか原因がよくわからないというのである。仕事で…

喫茶店と煙草

鬱病を発症し復職した彼を人事異動で引き受けた以上は、何とか以前の彼の姿に戻れるよう彼を会社近くの喫茶店に連れ出したのであった。彼と距離感を詰めるには私から洗いざらい自分をさらけ出すことしか思いつかず、喫茶店の片隅で生まれ育った田舎や家庭環…

ストレスフリー

他部署で「鬱」から復職した彼を思うと私が20代前半に頚髄損傷で四肢麻痺となり絶望しかなく自分の異常思考をコントロールできなかった頃、救ってくれたのは会社の上司や同僚の思いやりが一番の支えであったと会社に復帰してからそう思えたのであった。復職…

非真面目人間が復職プログラムに違和感あり

「うつ病」から復職した彼は私の課で復職プログラムを励行し時間が過ぎていったのであった。異動直後は会話しても無表情で気のない返答しかなく正直、五里霧中で言葉を選びながら接していたのであった。正直、私は腫れ物にでも触るような面持ちで有った。復…

うつ病とトップダウンの役員

勤務した会社は製造業で色んな部署が有ったが、私は新商品の研究設計開発部門に属していたのであった。管理職になり会社ビジョン達成に向け人財育成は私が最も重要視した領域であった。或る日の事であったが私は直属の上司と共に担当役員に呼ばれ何事かと少…

組織醸成は私の財産

頚髄損傷で課長職となり部下の育成と業務必達を苦慮しながら慢心する日々であった。課長職になり会議設定が多く会社に会議をしに行くような感じであった。デフォルトの会議は週3回有ったのである。 テリトリー役員連絡会議が月曜日の午前中、部長連絡会議は…

部下の評価と責務

頚髄損傷の私が管理職になって部下の賃金や賞与、職級の査定をしたのであった。これまで評価されるばかりの立場から評価する立場になったのである。とは言っても課長の私も部長に評価されていたわけであるが管理職の仕事のひとつとして気の重い仕事であった…

管理職としての始まりは・・・

大企業に中途入社し入社一年後に海外赴任中の怪我で人生が大きく変わってしまったこんな私が管理職になれるなんて、まさに青天の霹靂であった。部下はどう思うのか、脚に障害がある上司をどう思うのか、頼りないと思うのか悩んだのであったが管理職になった…