頚髄損傷でも家を買う
障害者手帳の3級を交付れたが交付されたからといって交付される前に思い描いていた後ろめたさや自分を卑下する感情はそれほど増幅することなかったのである。
暫くしてから世の中はバブル経済の崩壊などの余波を受けて市場は冷え込んでいたが不動産関連は高値の残像が残ったそんな時代の中にいたのであった。
バブルが弾け企業倒産が毎日報道され、下がることがないと言われた地価も値下がり不動産神話が崩壊していく時であったが私は無性に家を構えたくなったのである。
ただ身体障害者に住宅ローンの融資審査が通るのか不安であったが、ダメ元で申請をしたのであった。
申請後暫くしてから難なく35年ローン審査が通ったのであった。
しかし、身体障害者ということで住宅生命保険には入ることは出来なかったのである。
ローン支払中に不就業に陥っても住宅ローンの残債を保険で賄う事が出来ないのであった。
自分に何かあったらと思ったが心配ばかりしていても前に進めないと思い審査を受けて知り合いの不動産会社に依頼し、会社から車で15分程離れた建売の戸建を購入することにしたのであった。
先輩や同僚からは、「独身で戸建ですか~!」等と冷やかされたが庭付き戸建に住み、車で通勤することで、20代前半に頚髄損傷で四肢不全麻痺となり自活できるのか不安であった時期の自分を払拭し人並の暮らしを手に入れたいと思っていたのであった。
その象徴が家だった。
契約後直ぐに引っ越したのであった。
荷物は少なく部屋はスカスカ状態でどこから観ても独身の佇まいであった。
一部上場企業に務め定年までお世話になる覚悟を決めてから気になったのは田舎で独りで暮らす母親の事であった。
母は私のよき理解者であった。
私が産まれてから3歳上の姉とは違い全然手が掛からない赤ちゃんだったと何かにつけて話してくれたのである。
夜泣きするこもなく物静かで言葉を中々発しないことや同い年の子供と比べ異様に頭が大きいので水頭症で発育異常を来し言葉少なく泣くことも出来ないのではないかと疑い色々大学病院で診察して貰ったが、ただ単に頭でっかちの赤ちゃんだったと診断されるばかりであったが最後まで母の疑いは払拭出来ずこの子は不憫と思っていたのだと言っていたのを思い出すのである。
それ故母は姉よりも精一杯の愛情を私に注ぎ込んだと言っていたのであった。
そんな話を聞いて思い出すのは自分でも不思議とおもちゃをねだったりわがままを言った覚えが無い事であった。
私は幼稚園に入る前から中学卒業まで叱られた記憶はなく川釣りに目覚め小学生に上がった頃から中学を卒業するまでの春、夏休みの期間中、毎日弁当を作っては私に持たせ送り出してくれる母親で勉強や宿題はしたの~なんて言葉は聴いたことはなかったのである。
そんな母は昭和4年生まれで女3人男2人の5人弟妹の長女であった。
直ぐ下の妹の静江とは一卵性双生児であった。
私は静江さんの事を「しーちゃん」と呼んでいた。
母が産まれた昭和初期は、双子で産まれたことをよく思う慣習がない土地柄であった。
村八分にされてしまうのを恐れ出産後は何かと人目のつかぬように苦労したようで隣近所や親戚にも極力隠していた時代だったのである。
実の子の私にも中学生になるまで母としーちゃんが双子であることを明かさなかったのであった。
中学3年の時、母から双子で産まれたことを聴かせれ、自分の生い立ちを普通に言えなかった母の想いを察すると子供心に母の人生は悲愴で「僕が大人になったら母孝行するからね」なんて話をしながら2人で泣いたこともあったのである。
そんなこともあってか、この家で母と暮らすことを母に内緒で計画したのであった。