オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

THE 復職診断

復職診断の当日の朝、私は緊張と憂鬱に包まれていたのであった。

10時に上司が迎えに来てくれる事になっていた。

朝食を終え、2時間後に会社へ行くが、早く診断を受けたい気持ちもあったが、もし復職NGの場合は、そのまま退職手続きに移行するのでかなり不安な気持ちであった。

まさしく今日が私の人生の分岐点であった。

気持を落ち着かせる事が出来ず待っていると上司が現れ、早々に車に乗り込み会社へと向かったのであった。

途中、お礼を言いながら世間話等をしたが流れる車窓の景色に心ここにあらずの状態であった。

やがて見えてきた会社の正門、海外赴任時にこの門から出てから約2年4ヶ月ぶりであった。

改めてこの会社の社員であることを認識し、身分証明書を守衛さんに見せて門を通過し医療部門が入る建物の下の駐車場に車が停められたのであった。

上司の後に続き2階の産業医がいる部屋の前まで、遂に来た、という実感が込み上げてきたのであった。

いよいよであった。

上司がノックし「どうぞ」との声に先に上司が入り、私もあとから緊張気味に入室したのであった。 

上司の左後方に立って上司と産業医の挨拶が終わるのを杖を突き直立不動の状態で待っていた。

挨拶が終わり、私は深くお辞儀をしながら、「〇〇先生には、日本医科大学病院の移送で大変お世話になり、ありがとうございました。本日はご多忙のところお時間作っていただき恐縮です」とお礼を述べた。

産業医が「どうか頭をお上げ下さい」と言い終わるまで頭を下げていたのである。

頭を上げると「どうぞ」とソファーに招いてくださったので恐縮しながら腰を下ろしたのであった。

産業医は初見で、思っていたよりかは、初老の容姿であった。

日本医科大学病院の院長が教え子だった事を思い出し、70歳は越えているだろうと想像したのであった。

産業医が上司に幾つか質問し上司が答え、軽くうなずき書類に何か書きこんだのであった。

書き終えると私に質問されたのであった。

私(産業医)の前を2~3回往復して歩いてる姿を見せて下さいといわれ、私はソファーから立ち上がり、杖を突いてぎこちなく3往復歩いて見せたのであった。

次に万歳三唱するボーズをとらされ、その次は腰掛けて書面に名前を書かされ、両手を広げたり閉じたりさせられたのである。相変わらず、動きがぎこちない両手の開閉であった。

すると産業医は上司に復職後はどんな作業になるのか尋ね、上司はすぐさま「ディスクワークです」と、それだけ答えたのであった。

そうすると軽くうなずき、復職は来月一日からにしますかと尋ねてきたのであった。

上司は「ハイ」と答えていたのであった。

産業医は私に向かって・・・
「入院大変だったね」
「これから無理しないで、躰を慣らしながら仕事してくださいね」
「復職診断は以上になります」
と言われ、私はただ「ハイ」と答えるだけであった。

上司と私は頭を下げお礼を言って部屋を出たのであった。

廊下で上司にお礼を言って、駐車場に戻り車に乗り込んだのであった。

病院に戻る車中で上司に復職できるかとても不安だった気持ちを伝えたり、これまでお手数をおかけしたことなど、色々ご迷惑をおかけしましたと謝意を伝えたのであった。

「今日は不安でした、復職できるか。」

すると上司は、微笑みながら「オレは出来ると思っていたよ」と答えたのであった。

私は退職まで考えていましたと伝えると、また微笑んでいるだけだったのである。

病院に戻り、退院の日取りや会社の寮に一旦入寮する段取りなど打合せをして、上司は会社へと戻っていったのである。

上司を見送りベッドで横になり、改めて怪我してから今日までの事を思い涙が流れたのであった。


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