オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

眠れぬ夜が続く・・・少し憂鬱

転院してきた病院では、これと言った治療は無く社会復帰に向けた日常動作に特化したリハビリ施術を受けていた。

病室では台所やお風呂が完備されていて、簡単な自炊や洗い物などが出来、リハビリで汗をかいた後いつでも入浴出来たことは有難い事であった。

転院翌日からリハビリ担当のT氏が私の躰をくまなく計測し、その後はリハビリ室の機器を使い準備されたメニューを淡々とこなしていった。

機器は、空いていれば好きに使うことを承諾されていたが筋疲労にならない程度にと釘を刺されていた。

外出はナースステーションに申し出ると、行き先や所要時間を記入することで許可を得ることが出来た。

幸い病院の近くにはアーケードの商店街があり雨が降っても傘が要らないのでリハビリ兼ねた散歩にはうってつけであった。

日本医科大学病院での入院環境を思うと、部屋を借りて自活しているような、入院患者とは思えない程の環境だった。

この病院でのルーティンは、7時から7時30分までに検温と脈、排便、排尿、血圧、トピックヒヤリング実施し8時から朝食を摂り、10時から12時までリハビリを行い昼食後の14時から自主練リハビリを夕食まで体調に合わせて実施していたのである。

私は杖を突きながら、5分歩いては少し休み、5分歩いては少し休むの繰り返しで連続30分が限界で
それ以上は左脚の膝が痛み出し歩行できなくなるので、だましだまし歩行するのだった。
また、歩行速度は極めて遅く院外では人混みに入り込んで流れに乗ることなどいっさい出来なかった。

そんな入院生活が2週間ほど経過していた時に、職場から週末に2~3名の方々が見舞い訪れるようになってきたのであった。

日本医科大学病院では、先が見えない状況であり復職も視野になかったことから見舞いに来られるのが正直嫌で辛かったので見舞いNGを上司に伝えていた。

転院してからは上司が連絡会で私の状態を話し見舞いのGOサインを出したのであった。

この頃、躰の状態は左脚の膝と足首の動きが右脚に比べ弱く、リハビリ担当のT氏がテーピングなどで工夫してくれたが状況はさほど改善しなかった。

見舞い客を見送り、静まりかえった部屋で左脚の動きの鈍さに復職診断は大丈夫だろうかと不安が込み上げ、眠れぬ夜が続くのであった。

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