オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

頚髄損傷でも現場が一番

管理職になって数年経つと他部署の飲み会にも誘われる回数が増えたのであった。

新年会や忘年会、プロジェクトのキックオフ、何かにつけてのご苦労さん会、あちこちの飲み会に担ぎ出されるのであった。

飲み会の掛け持ちは当たり前で30分単位で参加した飲み会も数知れず色んな飲み会で挨拶のスピーチか締めの挨拶を求められたのであった。

頚髄損傷の躰には身が持たないと感じ、何かと理由を捜しては欠席していたことも数知れずの状態であった。

我に返るとよくぞここまで頚髄損傷の躰が回復してくれたものだと私に関わってくれた人々に頭が下がる思いであった。

そんな飲み会が繁忙期の40代目前の年の瀬に担当役員に呼び出されたのであった。

春の人事異動で部長職を打診されたのであった。

私は即答でお断りをしたのであった。

役員は驚き不思議そうな顔でなぜ断るのか少し立腹されたような表情をしていたのであった。

私は頚髄損傷で復職させていただき、上司、同僚の支えもあり管理職まで引き上げていただけたことには感謝しているがGeneral-managerの立場で仕事をすることに身体的な理由と管理職とし今以上に現場から離れるのが嫌であった。

私は元来直接の課員と仕事を成し遂げる、しかも机上だけでなく現場に行ききしながらPDCAを回しながらQDCを満足させる開発業務をするのが私の生きがいであった。

皆と試行錯誤を繰り返し技術論議をすることに歓びを感じ毎日が充実していたが管理職になると直接業務よりも労務管理や間接業務がウェイトを占めるようになり管理職数年後には色んな宴に呼び出せれることに、少し嫌気がさしていたのであった。

部長職よりかは独りで何かに没頭し事を成し遂げたりするのが病的に好きな私であった。

この想いは頚髄損傷の躰になって更に強くなったのであった。

やっぱり現場が好きだから

管理職としての昇格人事であったが私は丁重にお断りをしたのであった。

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年1の憂鬱

企業は従業員への健康診断を年1で実施するのが義務付けされていたのであった。

私は誕生月の7月に受診するのであった。

社内の健康管理室に行くと私と同じ誕生月に受診する従業員で溢れかえっていたのであった。

その中で心電図や胸のレントゲン撮影で上半身裸になり列を成して順番を待つのであるが、その時必ず周りの視線が自分に向けられていることを察するのであった。

その訳は私の上半身にある頚髄損傷の手術の傷跡と頚髄損傷患者特有な筋肉の付き方や盛り上がり方が明らかに不自然であったからだ。

私の両手は健常者と違い筋肉の盛り上がり方や太さはまるでカエルの手のように薄ペラであった。

両腕の筋肉も歪で細く貧弱であった。
私はこれらを悟られないように夏でも長袖のYシャツを着ていたのであるが健診で全てを剥がされてしまうのであった。

健診時に初めて私を見る人はギョッとしながら二度見するのであった。

看護師さんでさえ目を見開くのが判るのであった。

それは頚髄損傷で上半身に6箇所残る手術痕のせいであったからだった。

左顎から鎖骨にかけて長さ15cm程の頚椎前方固定手術で首に切り開いた傷跡、頭部を固定するためのボルト2本を骨盤から背中に貫通させた時に出来た傷口4箇所、まだ有る前方固定手術で移植する腰骨を取り出すために切り開いた背中に残る長さ20cmの傷口など上半身に生々しく見えるのであった。

これらを初めて見るものにとってはギョッとなるのは当たり前であった。

その視線を毎年7月に味合うのであった。

いつも衣類を身にまとい普段は見ることが出来ない手術の傷跡、健康診断時に久しぶりに会う知人とさりげなく世間話をしていても、健診の順番が来てこの上半身を目にすると、大概の知人は会話を終えるのであった。

見てはいけないものを見てしまったかのように、である。

私は、いちいち説明するのも面倒くさかったのでそれからは互いに無言で健診をこなしていくだけであった。

私自身も健常者の男らしい上半身を見ると筋肉の発達に対し私のアンバランスで不格好で貧弱な肉体に若干の劣等感を否めなかったのである。

健康診断は身体に障害があることを改めて他人に知らしめるものであった。

年1の憂鬱であった。

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奥さんからの手紙に感涙した。

私が担当した課は年度変わりの人事異動で新しく立ち上がった当時に比べ倍の人員で構成されていたのであった。

私を補佐する課長補佐職も当時は1人だけだったが、この時は3人となり担当業務域も拡大したのであった。

そんな中「鬱」の彼にも変化の兆しがあったのであった。

勤務時間も皆と同じ9:00~18:00の8時間勤務で当初担当していたエンジニアリングノートのファイリングとは別に担当設計業務に従事してもらっていたのであった。

この数ヶ月後にはスッカリ能動的な仕事が出来る事で、産業医や上司、役員に報告し正式に管理対象を解除したのであった。

そのことを彼に伝えると、後日奥さんから丁重な手紙を頂いたのであった。

奥さんの手紙で彼が「鬱」を発症した原因は上司に無理難題のスケジュールを押し込められて、真面目な性格で気の弱い主人は何も言えず、言われた納期に間に合わせるのに,会社から帰ってくると食事もろくに食べず、家で書類を作成するのが日課で時には徹夜をし土日は廃人のように寝ているばかりで、だんだんと表情も無表情になっていったことなどの詳細が綴られていたのであった。

奥さん曰く
いよいよもうダメかなと思ったときに、人事異動してもらって勤務時間など考慮され、仕事の環境が変わり、端から見ていて何かに追い詰められている感じがなくなって、徐々に主人が変わっていったことや夫婦の会話も次第に増え、更に時間の経過と共に会社の出来事で私の名前を出しては、前の上司と全然違うと、何かあると前とは違うと、そればかり・・・

以前の主人の表情に戻ってきたと便箋10数枚に綴られ、最後にお礼の言葉と主人に手紙のことは内緒にしてほしいとの要望もあり、私はあえて返信をしなかったのであった。

その手紙を読み終えて、夫婦が寄り添い支え合う温もりに感涙したのであった。

当時の私は独身で若干羨ましいと思ったのであった。

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彼を観察する

彼を人事異動で受け入れてから半年が過ぎた頃であった。

私は自席から彼の姿を観ていた。
私からは、4メーター先の横向きの彼の姿を捉えていたのであった。

俗に言う「作業観察」をはじめたのであった。

彼は私が作業観察していることなど知るよしも無かったのである。

この作業観察は復職プログラムの管理者が1日数回実施する項目であった。

私は作業中の彼の表情や動作速度、思考しているのか、集中しているのか、多角的に彼を観察し、時間経過を計測しながら集計紙に記入したのであった。

遠くから観た彼の表情は、特段変わった所はなかった。書類を読んでパソコンに目をやりまた書面にチェックを入れポストイットに何かを書き込み書類に貼って左の箱に入れていたのであった。

その動作は実にスムーズでリズミカルであった。
その作業動作や態度に違和感は無かった。

そんな彼を観ると、「鬱病」であることが嘘のように思えるのであった。

しかし私の同窓生が「うつ」を発症し、自ら命を絶った事を思うと、改めて気を抜くことなく接していかなければ、いつ豹変するか怖い病であることを再認識したのであった。

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煙草は心の休養日だった

彼は煙草をふかしながら、何かを思い出すようにゆっくりと話をしたのであった。

私は小さい声で話す彼の言葉を一言も聞き逃さないように少し前のめりに傾聴したのであった。

彼曰く、「自分が、なぜ鬱になったのか原因がよくわからないというのである。仕事で行き詰まったと感じたこともなく、職場の上司や同僚とも普通に接していた」と・・・

私は彼の表情を観ながら、人事異動が決まった翌日から何度も元職場で彼のことをいろいろ聞きまくり鬱になった原因を追求出来なかった事や産業医から言われた鬱の発症は明確な原因が分かっているものもあれば、そうでないものもあると聞いていた事が頭を駆け巡ったのであった。

何れにせよ本人の認識が無いので此方もどう対応したものかと悩むばかりで、今できることは彼の話を聴くしかなかったのであった。

彼が一通り話し終えたところで私は「煙草辞めてたの」と尋ねると彼は「禁煙したわけではないが、何となく吸いたくなくなったので」と答えてくれたのであった。
私は「久しぶりに吸ったんだ。美味かった」と尋ねると、彼はチョコンと頭を下げたのであった。

私はまた、彼に煙草を勧め2人でプカプカふかしたのであった。

この時は少し「会話」が出来たことを良しとして、喫茶店を出て会社に戻ったのであった。

私は彼を受け入れた時から、彼についての日誌を付けていたが喫茶店で話したことを書き留めていたのであった。

翌日、何か変化が起きないかと期待したが特段変わったことは無かったのであった。

翌日、彼の主務であるエンジニアリングノートのファイリングを確認したが、几帳面な性格の仕事っぷりで申し分なかったのであった。

私は彼にその旨を伝え「ありがとう」と伝えたのであった。

彼は少し微笑んだように見えたのであった。

これを機に週1で確認することにしたのであった。
また、確認が終わると彼を喫煙に誘い、たわいも無い世間話をするようになったのであった。

そうやって少し彼との距離感が狭まった気がしたのであった。


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喫茶店と煙草

鬱病を発症し復職した彼を人事異動で引き受けた以上は、何とか以前の彼の姿に戻れるよう彼を会社近くの喫茶店に連れ出したのであった。

彼と距離感を詰めるには私から洗いざらい自分をさらけ出すことしか思いつかず、喫茶店の片隅で生まれ育った田舎や家庭環境の特に父親とのいざこざを話したのであった。

話をするが彼はこちらを見るわけでもなく、目の前のコーヒーに手を伸ばすこともなく、どこかボンヤリと一点を観ていたのであった。

私はコーヒーを一口飲み、煙草に火を付け通路側に煙を吐き出し彼を見ると、こちらをじっと観ていたのであった。

この時が彼と目を合わせた初めての瞬間であった。

これまで彼と接してきたが互いに目を合わせることが出来なかったのである。

私は咄嗟に「煙草ごめんね」と灰皿でもみ消そうとした瞬間、彼が「一本良いですか」と言ったので、すかさず煙草箱と100円ライターを彼に手渡したのであった。

彼はチョコンと頭を下げて煙草に火を付けたのであった。

私は彼が煙草を取り出し口に咥える仕草を観て吸い慣れている感じであるが最近辞めていたのかなと推察したのであった。

私は彼の前に灰皿を差し出し2人で煙草をふかし暫く無言の状態であったが、ようやく彼もコーヒーに手を伸ばし、美味そうにプカプカ漂う煙を見ていたのであった。

私は話をせずに、ふかしながらコーヒーを一口飲み受け皿に置くと、彼が「○○さん(私)は、今までの管理職と違うんですね」と言ったのであった。

私はその意味が分からず、「えっ」としか言えず暫く無言でいたのであった。

彼は煙草をふかしながら、何かを思い出すようにゆっくりと話をしたのであった。

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ストレスフリー

他部署で「鬱」から復職した彼を思うと私が20代前半に頚髄損傷で四肢麻痺となり絶望しかなく自分の異常思考をコントロールできなかった頃、救ってくれたのは会社の上司や同僚の思いやりが一番の支えであったと会社に復帰してからそう思えたのであった。

復職してからは自分を鼓舞し精神的にも辛いときはあったが何とか会社勤めを続ける事ができ、30代半ばで管理職になれたのであった。

20数名の部下と仕事ができ、更にはある程度自活できるまでになり人としての喜びを感じていた矢先に役員の一言で決まった人事異動で鬱病から復職した課員を引き受けたのには、私が苦しんでいた時に会社や労働組合や職場の方々に恩返しではないが私なりの行動で彼を何とかできないかと、うぬぼれかもしれなかったが正直同じ職場の仲間として思うばかりであった。

四肢に障害がある私に何ができるのか、心の病と言われた鬱の事を色んなチャンネルを使い自分なりに理解することに全力で取り組んでいたのであった。

鬱という病で自殺した高校の同級生を思い出し、お通夜に両親から聞かせれたのは「まさか自殺するほど思い詰めていてとは・・・」という言葉に人事異動で受け入れ復職した彼を重ね合わせていたのであった。

管理職として彼には「何がストレスフリー」なのか産業医や上司とも協議したが答えは見つからずただ時間だけが過ぎていく感じであった。

そもそも鬱になった原因が会社での人間関係なのか、仕事なのか、家庭なのかハッキリしないのであった。

私は無性に知りたくなったのであった。

私は腹を括り、彼を勤務中ではあるが会社を離れ喫茶店でお茶をしたのであった。

私は会社ではなく社外の雰囲気の中で彼とたわいも無い話をしながら、彼の懐に近づきたかったのであった。

私はまず自分の過去を話したのであった。


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