オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

孤独を感じながら働く日々

60日間、勤務後の平日、休暇の土日関係なしに寸暇を惜しみ、ぶっ通しでマル秘扱いのマニュアルを全部描き写し、CAD操作のマイマニュアルを完成させたのであった。

計画通りに描き終えた事を上司と先輩に報告し、お礼を言って、やり切った感と、これからがCADをマスターする上で正念場だ、と改めて思うとマイ・マニュアルが愛おしく思えたのであった。

私は日常業務の合間にCAD端末器を立ち上げマイ・マニュアルに沿って操作訓練をしたり、昼休みはパンをかじりながら3次元のCADデータを創成するなど積極的に自主訓練をしていたのであった。

そんな日常も平穏無事な時間を重ね年度が変わり、組織体制に変更があったのである。

私は新しく出来た新組織の課に異動となったのであった。

新しい課は、30人程度の組織で入院でお世話になった上司が直属の課長で私の職級は技師となっていたのであった。
更に新設の課には、2人の新入社員も配属され、私にもやっと後輩が出来たのであった。

〈参考までに〉
職級の呼称は新入社員から順に技手、技師補、技師、上級技師(主任)、主査(課長)、主管(次長)、部長、常務、専務、社長、会長となっていたのであった。

私は中途入社(ミッドキャリア)なので年次の同期入社者はいなく同じ年齢の同僚もいなかったので、職級の上がりが早いのか遅いのかは、比較出来なかったので同じ齢の親しい友の職級を聞くと同じであったので少し安心したのであった。

新しく立ち上がった組織の親睦や新入社員の歓迎会などの幹事役を日頃からの感謝を込めて、何度か申し出るも、「大丈夫、大丈夫」とやんわりと拒否られ、私は「そうですか、申し訳ないです。」といいながらも、「私に気を遣っているような、いや気を遣わせている」と感じたまま宴に参加していたのであった。

職場には障害者がひとりも居なかったので、極力負担が掛からないように、周りがフォローしなければ、という雰囲気が漂っていたのであった。

私は、そんな仲間に囲まれて仕事できる環境に感謝しかなかったが、日常や仕事でフォローを要する社員と思われるのが嫌であったのである。

私は障害者として復職するからにはフォローされながら仕事するのではなく、健常者と同等かそれ以上のoutputを出し業務の要として従事する事と、少しでも早く職級を上げ優位な職級でサラリーマン生活を送る事に貪欲になっていたのであった。

その根底には障害を持ったことで、定年退職の歳まで勤め上げれるか判らないし、もしもの時に備えてある程度まとまった蓄えがないと不安で仕方がなかったのであった。

出社して退社するまで、皆と同じ時間拘束されるのなら、成果を出し職級を上げ給与時間単価を上げることしか思いつかなかったのである。

だからといって人を蹴落としてまで、出世したいとか、金の猛者とか、ケチで付き合いが悪い男と思われたくなかったのである。

元来私は、人に奢られることが大嫌いなので、同僚を誘って食事や呑みに行くときは、「誘った方が金を出す」誘われたら「割り勘」が私の持論であった。

週休2日なので毎金曜日は、誰かを誘っては「飲みにケーション」と称して会社帰りに駅前の飲み屋に出没していたのであった。

月日は流れ職場では私の流儀が浸透し、ONでもOFFでも健常者と同等な扱いで仕事をする事が出来きるようになっていたのであるが、それでも場合により表面を取り繕っている観も垣間見えたりもしていたのであった。

やはり周りに障害者は、私ひとりだけなので組織の中で異物だったのであろうと推察したが、孤独を感じながら働く日々でも・・・あったのである。


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