1982年頃の頚髄損傷の私は!
復職してから1年が過ぎていたのであった。
この頃は、左足首の短下肢装具と右手で杖を突いて歩いていたので、右の体幹や右太腿の筋肉はかなり発達していたのであった。
右太腿は周長60cmほどで中学時代にサッカーをやっていた頃と同じ太さであった。
太腿の左右差が顕著でズボンを新調した時は、右太腿に合わせるため、左脚側のズボンがスカスカで格好悪かったのである。
そんな私は職場でも寮でも同僚達に見守られながら日々を送っていたのであった。
時々、孤独を感じる事もあるが、ベストな環境で自活出来る事に、感謝するしかなかったのである。
人は誰しも、目の前に困った人がいれば手を差し伸べるのは当たり前の事ではあるが、こと通勤に限ってはその限りではなかったのである。
私は復職して通勤はもっぱら電車を利用していたが都会の通勤ラッシュは、ニュースでもよく取り上げられるほど凄まじく殺人的な人混みであった。
企業戦士達や女性、学童までもが満員電車に押し込まれ、その身動きも出来ないさまは、誰もが恐怖でしか無かったと思うのであった。
私は、その恐怖を回避するために電車が空いている時間帯に乗り込むしかなかったのである。
それでも、とある朝に人の流れに乗れないので通路の端を何時ものようにヨイショ、ヨイショと杖を突いて歩いているにもかかわらず、私の右際を早足ですり抜けて行く輩、私の杖に躓き、私もまた倒れそうになったのである。
しかもその輩は「すいません」の一言も無く、さっさと歩いて去って行くのであった。
心の中で「クソッタレ、地獄に落ちろ」と思いながら、もし転倒すれば、こっちは間違いなく病院に逆戻りになるかも知れないのに、「なに考えているんだ」と怒りをあらわにするしかなかったのであった。
他人の優しさや、気遣いなど微塵も感じることが出来なかったのである。
自己防衛のため、自分の身は自分で守るのが原則であるが、都会の殺伐とした世の中でも弱者保護の意識がもう少し高度化すればと思うのであった。
危ない目にあった翌日から朝6時半の電車に乗り出社するようにしたのである。
お陰で会社に一番に入るようにもなり、始業時間の9時まではボーッとするか、仕事をするかになるが、どちらにせよ残業も含め15時間以上は会社にいるようになったので疲れて帰る日々であった。
たまに寝坊して、朝の通勤ラッシュを過ぎた電車に乗ると、立っている客は、まばらで座席は埋まった状態の車輌であったが、私が乗り込んでも座席を譲ってくれる方は皆無であった。
一瞥し寝ていたり、ウォークマンを聴きながら目を閉じていたり、これが都会の光景だな~と・・・
と同時に、私が「ど田舎」で過ごした1960年代の幼少期、皆がお年寄りや躰が不自由な方に自然と席を譲っていた光景が浮かび、ど田舎だからか小学校の「道徳」の時間が醸成していたのかは判らないが、ほのぼのした記憶が蘇るのであった・・・。
でも、私は一度も席を譲って欲しいと思ったことはなかったのである。
座るとリハビリ訓練にならないから・・・ね。