オヤジの闘病回想記

ブログ「猫と杖とキャンピングカーと」に登場する1956年生まれのオヤジが約40年前に大怪我をし、躰の自由を奪われ人生観が激変、現在に至るまでの葛藤を綴った記録です。

転院前に想う

入院から17ヶ月と3日が経ち、日本医科大学病院から社会復帰に向けたリハビリ専門の病院への転院が5日後に決まったのである。

自分の人生を振り返ると私は小学校6年生から何かしらやりたいことがあると日程表や時間割を作り、計画通り実践する事を好んでやる人間であった。

そんな私が成人になり23歳で首を骨折し頚髄損傷となり、先が見えない暗闇で自分の躰が動かない絶望の中、治療に手術や投薬、リハビリの入院加療をするも日本の医者達は将来の経過予測を明確に言ってくれなかった。
当時はそれだけ診断が困難な怪我であったのである。

絶望の中、社会復帰したいという目標はあれども経過予測もなしに日程や時間割など考えたところで漠然としていて、上手く描くことが困難であった。

医療は方程式で解けない人間の神秘的な治癒力と適切な処置の世界で患者が自助努力したところで、成るようにしかならないと思っていたのであった。

そんな思いから他人任せで刹那的な入院生活を送っていたが、首の前方固定手術の後から運よく躰の1部が動き機能し始めたり、リハビリで補完できたりすると徐々に欲が出て元の躰は無理でも、社会復帰し自活出来るようになりたい(出来るのではないかと)と日を増すごとに強く思うようになったのである。

しかし社会復帰するための最低条件は会社に復職する事だと思っていたが、残された時間は僅か6ヶ月であった。
しかも6ヶ月の内訳は日本医科大学病院が5ヶ月、残り1ヶ月はリハビリ専門病院となるのであった。

そうなると日本医科大学病院の5ヶ月の時間をいかに過ごすか、後悔だけはしたくないという思いは強く「節目管理(マイルストーン)や1日の時間割表を作り、実践し日々積み重ねて自助努力しなければ後悔する」と思考が変わっていたのである。

この5ヶ月間は効率よく、より多くのリハビリメニューを時間割に添って愚直に実践してきた。
その結果、転院までこじつけたのであった。

しかしながら、闇雲に動かず、効率よくより多くを手がけることの出来るような時間割を作り実践する習慣は、私が小学生まで遡った人間形成にあるのであった。

私は小学校5年生まで春、夏、冬休みの宿題は、その日に気が向いた科目を場当たり的にやって、一応区切りのいいところで妥協し、竿を持って川にいく、そんな少年だった。

当時はハヤ釣りを最優先に興じていたので、休み期間の後半に溜まった宿題や自由研究を追い込んでいく、計画性が無い子供であった。それは自覚していたのである。

ただ、そんな子供でも川釣り最中、釣れない時間帯にウキを眺めていると、どうしても溜まっていく宿題や自由研究などが頭をよぎる、明日やれば挽回できるなんて根拠も無く妥協し、その繰り返しからケツカッチンの状況に陥り、後半追い込みとなってしまうのであった。

しかし、もっと釣りに全力投球出来る(宿題や自由研究などチラつかない)方法は無いかと、川釣りの弁当を作ってくれた母に話すと「毎日少しずつ宿題をやる時間割を作れば・・・」というヒントを授かり、小さな脳みそで考え、次の年の小学校6年生からは、休みの前半に宿題と自由研究を全て終わらせるための日程表と週と日の時間割を作り、確実に実践し、残りの休みは朝早くから弁当持って釣りに出かけた、そんな小さな成功体験を得られたのであった。
まさしく「お母さん、ありがとう」であった。

この経験により、中学から社会人に至るまで、学業や仕事にも日程表ありきで取り組んできたのであった。

ただひとつ弊害があった。学生時代は自分の時間割をこなすのが最優先なので、友達の遊びの誘いを断るケースが多く、群れて遊ぶ事が殆ど出来ず友達も少なかったのである。

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